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義仲最期

平家物語ならクライマックス、義経が大活躍して平氏が没落するのが寿永3年(4月に改元して元暦元年、西暦1184年)。物語的展開は平家物語その他に譲るとして、ここは吾妻鏡を読んでいきます。

寿永3年1月10日条に義仲が征夷大将軍となった記事が出ています。「希代朝恩」とありますが、要するに頼朝を優遇する朝廷に対して不満をぶつけて法皇を幽閉した義仲をなだめようという意図でしょう。20日には範頼と義経が頼朝の使者として「義仲追罰のため」数万騎を率いて入洛(また誇張があります、数万騎)。範頼・義経らは御家人たちを率いて仙洞御所を警護、義仲はその日のうちに粟津で討たれます。征夷大将軍であったのはわずかに10日間。平家物語などでは今井兼平の奮戦や巴御前の物語などがあって劇的な部分ですが、吾妻鏡では「一条次郎忠頼已下勇士競争于諸方、遂於近江国粟津辺令相模国住人石田次郎誅戮義仲」と至って簡潔に述べられています。『愚管抄』ではもう少し詳しく、「義仲ハワヅカニ四五騎ニテカケ出デタリケル。ヤガテ落テ勢多ノ手ニクハゝラント大津ノ方ヘヲチケルニ、九郎ヲヒカゝリテ大津ノ田中ニヲイハメテ、伊勢三郎ト云ケル郎等、打テケリトキコヘキ。(日本古典文学大系、岩波書店より)」 さらにこの時、平氏は対頼朝のため、義仲と手を組もうと西国から上洛の途中であったと書いてあります。敵の敵は味方、の典型例ですね。義仲を討った人物は、吾妻鏡と平家物語では石田次郎、愚管抄では伊勢三郎となっています。

27日には範頼・義経をはじめ御家人らの飛脚が鎌倉に到着、それぞれの報告が行われ、頼朝が詳細を聞いていたところ、少し遅れてきた梶原景時の飛脚だけが「討亡囚人等交名注文」を持参していて、他の者はそういう記録を持ってきていなかったので、景時の配慮に感心した、という話があります。ここでも株を上げている景時。嫌われ者ですが、私の目には良く気のまわる仕事のできる人、に見えるのですけれども・・・
1月29日、範頼・義経を大将として、平氏追討の勢が京から西国へ出陣。翌月がいよいよ一ノ谷の合戦となります。
# by kyougen-kigyo | 2013-05-19 23:17 | 考察編

寿永二年のこと(補)

寿永2年(1183)は歴史的には非常に重要な年ですが、吾妻鏡に寿永2年が抜け落ちているせいで、このまま読み進めると話が飛んでしまうので、間もあいたことだし、おさらい的に寿永2年の出来事をまとめておきます。

2月  頼朝の叔父・志田義広が関東で反頼朝の兵を挙げるも敗れ、義仲のもとに身を寄せる。これにより頼朝と義仲の関係悪化。
3月  頼朝、義仲の嫡子・清水冠者義高を娘婿にする名目で人質に取る。頼朝と義仲の休戦成立。
5月  義仲、北陸へ向かった平氏勢を倶利伽羅峠で破る。
7月  平氏都落ち。義仲、入京。
9月  義仲、平氏追討のため西国へ出陣。
10月 頼朝、「寿永二年の宣旨」により東海道・東山道の実質的支配権を得る。
11月 10月の宣旨に不満を持った義仲、法住寺合戦により後白河法皇を幽閉。

軍事的には木曽義仲の独壇場ですが、頼朝の政治的手腕も冴えています。義仲の快進撃を鎌倉で静観しつつ、押さえるところは押さえる。頼朝にしてみれば義仲も平氏も反頼朝という意味では同じこと、対抗勢力が喰い合って衰えるのを待っている感があります。結果、平氏は西国へ落ち、義仲は京で孤立して身動き取れず、頼朝は関東で勢力を温存している状況で寿永3年を迎えることになります。
# by kyougen-kigyo | 2013-05-12 22:24 | 考察編

まんだら堂やぐら群

ブログが鎌倉から逸脱してきてますが、ちゃんと鎌倉にも行ってます。今日は名越切通にある“まんだら堂やぐら群”を見学してきました。連休中で鎌倉駅は大混雑、でも緑ヶ丘入口行きバスは空席が目立つ。終点まで行ったのは私と、もう一組だけでした。駅周辺の混雑が嘘のような、この状態。
まんだら堂やぐら群_c0263829_19561586.jpg
切通の入口の空き地、以前はけもの道程度でしたが砂利を敷いて道ができていました。まんだら堂やぐら群は、鎌倉市ではなく逗子市の管轄(国指定史跡なので正確には国の管轄なのかもしれませんが)。ここ何年も発掘のため立入禁止で、特別公開中しか見られません。タイミングが合わず、実は入ったのは初めてです。やぐら群の入口で逗子市教育委員会の方?から、これまでの発掘状況などをまとめた資料をいただきました。

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# by kyougen-kigyo | 2013-05-03 20:21 | 鎌倉歩き

北八ヶ岳に行ってきました。

GWということで、北八ヶ岳へ。同行者1名。初日はピラタスロープウェイで(最近、北八ヶ岳ロープウェイという名前に変わってますが)坪庭に上がります。相変わらず薄着にハイヒールで来て寒がっている人が、いますねぇ。ロープウェイの山頂駅は標高2230mですよ。寒いに決まってます。
この日は北横岳。前週に降雪で北横岳でもだいぶ積もっていました。とても良い天気で、北・中央・南アルプス、全部見えました。
北八ヶ岳に行ってきました。_c0263829_21155848.jpg
北横岳山頂からの蓼科山、背後に北アルプスの雪の山嶺。

ピストンで戻って蓼科1泊、29日にはまたロープウェイで上がって、今度は縞枯山~茶臼山~麦草峠~丸山~賽ノ河原を通って渋の湯。ほぼ全コース雪道。渋の湯へおりる最後の部分が凍結してその氷の上を雪解け水が流れていて、この日一番の難関でしたね。同行者はアイゼンなしで全行程歩きましたが私の力量では不安…なので初日の北横岳登りと2日目の岩ごろごろの賽ノ河原付近以外はほとんどアイゼン付けっぱなし。連休後半は雪の踏み抜きが増えそうな雰囲気でした。
北八ヶ岳に行ってきました。_c0263829_21162856.jpg
縞枯山の山頂。縞枯れてます。
北八ヶ岳に行ってきました。_c0263829_2116496.jpg
麦草ヒュッテの前でお昼の野菜リゾット作成中。出来上がりの写真は撮り忘れました…
昼食込みで5時間くらいで歩きました。
北八ヶ岳に行ってきました。_c0263829_21172072.jpg
お疲れ様な山道具たち、今回の大活躍は6本爪アイゼン。シャーベット状から粉雪まで色々なタイプの雪・氷道があったので、アイゼンの使い方の練習にもなって良い山行でした。
北八ヶ岳に行ってきました。_c0263829_21173940.jpg
茅野駅で売っていた、鹿肉ジャーキー。鹿は増えているので食べましょう。「カントリーレストラン匠亭」もちょっと気になる。
# by kyougen-kigyo | 2013-04-30 13:07 |

上総介広常のこと

寿永2年に唐突に殺されてしまった上総広常。吾妻鏡に広常の名が出てくるのは治承4年(1180)8月24日です。石橋山の合戦に参加しようとしていた三浦一族が、頼朝が敗れたという報を聞いて三浦に戻る途中で、広常の弟・金田小大夫頼次が七千余騎を率いて合流しています。吾妻鏡は数字に信憑性がないので、七千余騎も誇張だと思いますが。

本人が登場するのはそれから10日ほど後の9月上旬。安房に逃れた頼朝が、広常の居所を訪れようと言って3日に出発、しかし途中、長狭六郎常伴という者が襲ってきます。名前からして長狭郡の辺りの住人だったのでしょう。これは三浦義澄が撃退して、4日、安房国住人安西景益が「長狭六郎みたいのもいるから、広常の所には使いをやって迎えにこさせましょう」と提案。頼朝はこの言を入れて側近の和田義盛を上総広常の元へ、安達盛長を千葉常胤の元へ遣わしました。

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# by kyougen-kigyo | 2013-04-17 20:00 | 考察編


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by 柴

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