人物評③ 梶原景時
文治3年(1187)3月10日、土佐の住人・夜須七郎行宗が壇ノ浦合戦の時に平氏の家人岩国兼秀を生捕りにした功で恩賞を求めたところ、梶原景時が壇ノ浦の時に夜須という者はいなかった、兼秀は自ら降ったのだと言って争論になり、頼朝の決裁を仰ぐことに。行宗は同じ船に春日部兵衛尉が乗っていたと言ったので春日部が呼ばれて、夜須は勿論そこにいたと証言したので、行宗は賞を加えられ、景時は讒訴の科により鎌倉中の道路を作るという裁決になりました。
梶原景時といえばこのような讒訴で悪名高い人ですが、実際には官僚タイプの職務に生真面目な人だったのではないか、という気がします。夜須行宗の一件にしても、岩国兼秀を降したのは行宗じゃなくて自分だ!と言ったわけではないし、行宗の恩賞を妨げたところで景時にメリットは無さそうです。壇ノ浦に夜須がいたことに気付かなかっただけなのでは…個人的には興味がある人物なので、ここでちょっと吾妻鏡に出てくる景時関連の記事を見てみたいと思います。
初登場は治承4年(1180)8月24日。石橋山の合戦の後、景時は平氏方だったにもかかわらず頼朝を助けて逃がし、翌年正月11日に鎌倉で頼朝と対面。「雖不携文筆、巧言語之士也、専相叶賢慮」とあります。言葉がうまい、これだけでも御家人たちの反発を買ってしまう要素はありそう。その後、侍所の所司として、別当の和田義盛と共に頼朝の信任を得て近侍するようになり、寿永2年(1182)には関東一の勢力を誇った上総広常を討ち取る功績もあげています。元暦元年(1184)正月には木曽義仲が討たれますが、正月27日にその報告が続々と鎌倉へ届いた時、景時の飛脚だけが討ち取った者・捕らえた者の名簿を持参していたので「景時之思慮猶神妙之由、御感及再三」。おそらく、他の飛脚は自分の主人が誰を討ち取ってどういう功績を上げたかということをばらばらと口頭で報告したのではないでしょうか。そういう中で景時だけが、わかりやすい情報を持ってきた。頼朝にしてみれば「使える奴」だったのでしょう。
元暦2年4月21日、平氏追討のため鎮西へ行っている景時から鎌倉へ書状が届きます。この書状で義経の専横を訴えているために後世、歴史上の悪人になってしまったわけですが、このブログでも時々言及している通り義経には当時、あまり人望が無かったようですから、その内容はまったくの讒言というわけでもないでしょう。その後の義経追討は、頼朝が景時の讒訴に動かされたというよりも、義経を排除したい頼朝が景時の訴えを利用した形なのではないかと思います。
文治3年3月が前述の夜須行宗の件で、11月にはもう一つ、景時の悪評になる事件が起きます。発端は9月27日、畠山重忠の代官・真正という者が所領の伊勢沼田御厨で「奸曲」を働いたために伊勢神宮の神人から訴えられて、重忠は代官の所行は関知していないと弁明したけれども所領四か所を収公された上、囚人として千葉胤正に預けられたというもの。この場合相手が伊勢神宮だったから分が悪かったのですが、所領における狼藉で御家人が譴責されるのは珍しくもない話。ところが重忠は清廉を重んじる人物だったので、囚人とされたことに抗議したのかハンストに入ってしまいます。10月4日、扱い兼ねた千葉胤正が、七日間経つけれども寝食を断って言語も発しない、死ぬ気じゃないか、と報告したので、頼朝も赦免することにしました。重忠は一度御所に参上して朋輩に「代官の選定には気を付けた方がいい」という言葉を残し、本領である武蔵国へ帰ってしまいました。ここまでは景時は全く関わっていません。
11月15日、景時が内々に、重忠が無実の罪で召禁されたのは大功を捨てられたようなものだといって武蔵国菅谷館に引きこもり、反逆しようとしているという風聞がある、と頼朝に言上。そこで小山朝政・下河辺行平らを召集し、使いを遣わして子細を問うべきか、討手を差し向けるべきかと問いましたが、重忠は御家人たちから信頼厚く人望があります。あの廉直な重忠が謀叛なんてありえない、ということで満場一致。使者には重忠と仲が良い下河辺行平が選ばれました。疑われるとは心外だ、と自害しようとする重忠をなんとか宥めて鎌倉に一緒に帰ってきたのが21日。逆心などないことを取り次ぎ役の景時に説明。景時は起請文を書かせようとしますが、重忠は「如重忠之勇士者募武威奪取人庶財宝等為渡世計之由、若及虚名者、尤可為恥辱、…中略…且重忠本自心与言不可異之間、難進起請、疑詞用起請給之條者、対奸者時之儀也、於重忠不存偽之事者、兼所知食也」と起請文は書かず。この重忠の言葉、多分に景時への当てつけが入っているようですね。この件は21日で落着しましたが、義経の件よりも重忠の件の方が景時に対する御家人たちの心象は悪かったのではないでしょうか。
・・・思いのほか長文になりそうなので次回に続く・・・
梶原景時といえばこのような讒訴で悪名高い人ですが、実際には官僚タイプの職務に生真面目な人だったのではないか、という気がします。夜須行宗の一件にしても、岩国兼秀を降したのは行宗じゃなくて自分だ!と言ったわけではないし、行宗の恩賞を妨げたところで景時にメリットは無さそうです。壇ノ浦に夜須がいたことに気付かなかっただけなのでは…個人的には興味がある人物なので、ここでちょっと吾妻鏡に出てくる景時関連の記事を見てみたいと思います。
初登場は治承4年(1180)8月24日。石橋山の合戦の後、景時は平氏方だったにもかかわらず頼朝を助けて逃がし、翌年正月11日に鎌倉で頼朝と対面。「雖不携文筆、巧言語之士也、専相叶賢慮」とあります。言葉がうまい、これだけでも御家人たちの反発を買ってしまう要素はありそう。その後、侍所の所司として、別当の和田義盛と共に頼朝の信任を得て近侍するようになり、寿永2年(1182)には関東一の勢力を誇った上総広常を討ち取る功績もあげています。元暦元年(1184)正月には木曽義仲が討たれますが、正月27日にその報告が続々と鎌倉へ届いた時、景時の飛脚だけが討ち取った者・捕らえた者の名簿を持参していたので「景時之思慮猶神妙之由、御感及再三」。おそらく、他の飛脚は自分の主人が誰を討ち取ってどういう功績を上げたかということをばらばらと口頭で報告したのではないでしょうか。そういう中で景時だけが、わかりやすい情報を持ってきた。頼朝にしてみれば「使える奴」だったのでしょう。
元暦2年4月21日、平氏追討のため鎮西へ行っている景時から鎌倉へ書状が届きます。この書状で義経の専横を訴えているために後世、歴史上の悪人になってしまったわけですが、このブログでも時々言及している通り義経には当時、あまり人望が無かったようですから、その内容はまったくの讒言というわけでもないでしょう。その後の義経追討は、頼朝が景時の讒訴に動かされたというよりも、義経を排除したい頼朝が景時の訴えを利用した形なのではないかと思います。
文治3年3月が前述の夜須行宗の件で、11月にはもう一つ、景時の悪評になる事件が起きます。発端は9月27日、畠山重忠の代官・真正という者が所領の伊勢沼田御厨で「奸曲」を働いたために伊勢神宮の神人から訴えられて、重忠は代官の所行は関知していないと弁明したけれども所領四か所を収公された上、囚人として千葉胤正に預けられたというもの。この場合相手が伊勢神宮だったから分が悪かったのですが、所領における狼藉で御家人が譴責されるのは珍しくもない話。ところが重忠は清廉を重んじる人物だったので、囚人とされたことに抗議したのかハンストに入ってしまいます。10月4日、扱い兼ねた千葉胤正が、七日間経つけれども寝食を断って言語も発しない、死ぬ気じゃないか、と報告したので、頼朝も赦免することにしました。重忠は一度御所に参上して朋輩に「代官の選定には気を付けた方がいい」という言葉を残し、本領である武蔵国へ帰ってしまいました。ここまでは景時は全く関わっていません。
11月15日、景時が内々に、重忠が無実の罪で召禁されたのは大功を捨てられたようなものだといって武蔵国菅谷館に引きこもり、反逆しようとしているという風聞がある、と頼朝に言上。そこで小山朝政・下河辺行平らを召集し、使いを遣わして子細を問うべきか、討手を差し向けるべきかと問いましたが、重忠は御家人たちから信頼厚く人望があります。あの廉直な重忠が謀叛なんてありえない、ということで満場一致。使者には重忠と仲が良い下河辺行平が選ばれました。疑われるとは心外だ、と自害しようとする重忠をなんとか宥めて鎌倉に一緒に帰ってきたのが21日。逆心などないことを取り次ぎ役の景時に説明。景時は起請文を書かせようとしますが、重忠は「如重忠之勇士者募武威奪取人庶財宝等為渡世計之由、若及虚名者、尤可為恥辱、…中略…且重忠本自心与言不可異之間、難進起請、疑詞用起請給之條者、対奸者時之儀也、於重忠不存偽之事者、兼所知食也」と起請文は書かず。この重忠の言葉、多分に景時への当てつけが入っているようですね。この件は21日で落着しましたが、義経の件よりも重忠の件の方が景時に対する御家人たちの心象は悪かったのではないでしょうか。
・・・思いのほか長文になりそうなので次回に続く・・・
by kyougen-kigyo
| 2014-03-03 19:31
| 考察編
鎌倉、登山、日本刀、その他諸々
by 柴
カテゴリ
全体鎌倉歩き
考察編
山
日本刀
展覧会
リンク集
その他
未分類
以前の記事
2023年 03月2023年 01月
2022年 08月
2022年 04月
2021年 10月
more...
最新の記事
ちょっと鎌倉へ |
at 2023-03-18 12:27 |
国会図書館デジタルコレクショ.. |
at 2023-01-19 14:47 |
建久2年の山門騒動つづき |
at 2022-08-05 10:54 |
建久2年の山門騒動 |
at 2022-08-02 16:43 |
建久二年の大火と鶴岡八幡宮 |
at 2022-04-30 10:17 |