やっと、吾妻鏡に鎌倉の話題。
頼朝が動かなかったので場所としての鎌倉が吾妻鏡になかなか出てきませんでしたが、一ノ谷以後、ようやく鎌倉の様子が記されるようになってきます。
4月4日、御所の桜が咲いたので、一条能保・平時家らと共に花見。現在の暦でいう3月上旬に当たりますから、山桜ではない早咲きの桜。色が濃かったとありますから寒緋桜か何かでしょうか。花見の相手は武士たちではなく京下りの人々。大倉御所は寝殿造りだったそうですし、管弦も催されていますから、由比ヶ浜で流鏑馬や犬追物に興じる頼朝とは違った一面ですね。
4月10日には在京の義経から使者が到来、頼朝の正四位下叙任を告げます。頼朝の元の官位は従五位下。官位の制度がわからないと五位から四位、なんだ一階級か、と思われるかもしれませんが従五位下→従五位上→正五位下→正五位上→従四位下→従四位上→正四位下。かなりの躍進なのです。
これより少し前の3月、一ノ谷で捕虜になっていた平重衡が関東へ護送されます(護送役は梶原景時)。27日、伊豆に到着し、政子の実家がある伊豆北条に鹿狩りに出ていた頼朝と対面。堂々と落ち着いた態度で皆に感心されています。4月8日に鎌倉に入り、管弦が行われたり、平家物語にも出てくる千手前が仕えたりと優遇されています。「郭内之屋一宇」を点じて招き入れたと書いてあり、「郭内」というのは御所の敷地内という意味でしょうか。『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)でも「御所内の建物一軒を指定して」と訳しています。大倉御所の一角に住まわせたとしたら、これも捕虜としては破格の待遇でしょう。普通は信頼のおける御家人に預けてしまいます。
一方、義仲の子で人質となっていた清水冠者義高が討たれます。頼朝の娘婿になる約束で鎌倉にいたため、処刑されるという話を聞いた許嫁の大姫とその周辺が義高を逃し、一度は鎌倉から脱出しますが4月26日、藤内光澄という人物によって討たれました。ところがこの藤内光澄、大姫の嘆きを見た政子の怒りで6月27日に梟首されてしまいます。亀の前事件の時といい、どうも二重命令系統ができてしまっていますね・・・ちなみに大姫という名前は長女という意味ですから実名ではありません。乙姫という人も出てきますが、これも次女という意味。この大姫、後に入内計画が持ち上がりますが、体が弱かったのと、義高が父の命で殺されたというショックもあったのでしょう、建久8(1197)年に若死にしています。海蔵寺近くにある六角形の岩船地蔵堂は大姫の持仏を祀った場所と伝えられています。乙姫(吾妻鏡には「三幡」という名前が出てきます)も14歳で病死しており、頼朝の娘の入内は成りませんでした。
元暦元年に戻って4月14日、長年京都で活躍していた三善善信がついに鎌倉へ(善信についてはこちらを参照)。これ以降、中原(大江)広元と共に、鎌倉において幕府の組織作りに寄与していく人物です。
4月4日、御所の桜が咲いたので、一条能保・平時家らと共に花見。現在の暦でいう3月上旬に当たりますから、山桜ではない早咲きの桜。色が濃かったとありますから寒緋桜か何かでしょうか。花見の相手は武士たちではなく京下りの人々。大倉御所は寝殿造りだったそうですし、管弦も催されていますから、由比ヶ浜で流鏑馬や犬追物に興じる頼朝とは違った一面ですね。
4月10日には在京の義経から使者が到来、頼朝の正四位下叙任を告げます。頼朝の元の官位は従五位下。官位の制度がわからないと五位から四位、なんだ一階級か、と思われるかもしれませんが従五位下→従五位上→正五位下→正五位上→従四位下→従四位上→正四位下。かなりの躍進なのです。
これより少し前の3月、一ノ谷で捕虜になっていた平重衡が関東へ護送されます(護送役は梶原景時)。27日、伊豆に到着し、政子の実家がある伊豆北条に鹿狩りに出ていた頼朝と対面。堂々と落ち着いた態度で皆に感心されています。4月8日に鎌倉に入り、管弦が行われたり、平家物語にも出てくる千手前が仕えたりと優遇されています。「郭内之屋一宇」を点じて招き入れたと書いてあり、「郭内」というのは御所の敷地内という意味でしょうか。『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)でも「御所内の建物一軒を指定して」と訳しています。大倉御所の一角に住まわせたとしたら、これも捕虜としては破格の待遇でしょう。普通は信頼のおける御家人に預けてしまいます。
一方、義仲の子で人質となっていた清水冠者義高が討たれます。頼朝の娘婿になる約束で鎌倉にいたため、処刑されるという話を聞いた許嫁の大姫とその周辺が義高を逃し、一度は鎌倉から脱出しますが4月26日、藤内光澄という人物によって討たれました。ところがこの藤内光澄、大姫の嘆きを見た政子の怒りで6月27日に梟首されてしまいます。亀の前事件の時といい、どうも二重命令系統ができてしまっていますね・・・ちなみに大姫という名前は長女という意味ですから実名ではありません。乙姫という人も出てきますが、これも次女という意味。この大姫、後に入内計画が持ち上がりますが、体が弱かったのと、義高が父の命で殺されたというショックもあったのでしょう、建久8(1197)年に若死にしています。海蔵寺近くにある六角形の岩船地蔵堂は大姫の持仏を祀った場所と伝えられています。乙姫(吾妻鏡には「三幡」という名前が出てきます)も14歳で病死しており、頼朝の娘の入内は成りませんでした。
元暦元年に戻って4月14日、長年京都で活躍していた三善善信がついに鎌倉へ(善信についてはこちらを参照)。これ以降、中原(大江)広元と共に、鎌倉において幕府の組織作りに寄与していく人物です。
by kyougen-kigyo
| 2013-06-09 20:33
| 考察編
鎌倉、登山、日本刀、その他諸々
by 柴
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