吾妻鏡、考察編~「武家の棟梁」とは~
リンク集など挟んだので間が空きましたが、吾妻鏡の話を続けます。
治承4年(1180)10月16日に駿河へ向けて出陣した頼朝が鎌倉に帰ってくるのは1ヶ月後で、その間、吾妻鏡に鎌倉は出てきません。しかし、いくつか重要な出来事が起きているので覚え書きしておきます。
①富士川の合戦で勝利、そのまま追撃・上洛しようとするが千葉常胤・三浦義澄・上総広常らに止められる
②義経が遥々会いに来て兄弟対面
③御家人たちに本領安堵・新恩給与の初の恩賞配分を行う
④常陸の佐竹氏を討つ
感動的なのは②なんでしょうけれど、私が重視するのは①、上洛しなかったこと。水鳥の羽音に驚いて平氏の軍勢が逃げた、というのはこの前の大河ドラマでもやってましたね。大勝して、このまま京まで行くぞ!と気勢をあげたくなるのもわかりますが、関東の有力者たちは揃って止めている。関東には佐竹のように従わない勢力がおり、京にも敵がいるのだから、上洛は関東を平定してからにするべきだ ─ 喧嘩っ早い坂東武者たちがずいぶん冷静に状況判断しているではありませんか。もっとも、一所懸命という言葉ができるくらいに、この時代の武士たちにとって大事なのは〈所領〉ですから、足元不安定な時に遠出したくなかっただけかもしれませんが。この時点で頼朝が上洛していたら、鎌倉幕府はなかったかもしれません。
次に重要だと思うのは③。恩賞配分を誤ればすぐに人心が離れるのは古今東西同じことで。しかも、中世の武士団というのは江戸時代のガチガチに固まった儒教的上下関係とは違って、血縁や姻戚で結び付いた中小の勢力が横に繋がったり離れたりしている、ゆるい連合体です。一度「こいつダメだ」と思われたら、離反される程度で済めばまだしものこと、「棟梁の器でなければ討ち取って手柄にしよう」という上総広常の態度が、当時の武士団の長としては当たり前です。〈武士道〉なんて言葉が生まれるのは遥か後世、騙し討ちもするし大勢で寄ってたかって1人を討ち取るのも普通。現代人がイメージする〈サムライ〉とはだいぶ違っていると思います。この時代の人々、はっきり言って、かなり自由。恩賞に不満があれば「何であっちの方が多く貰ってるんだ!」と喧嘩を始めるのは目に見えてます。この時代の喧嘩って、一族郎党わらわら集まって来て合戦に発展しますから、平氏打倒どころではなく関東争乱状態になります。初めてのことですから御家人たちも、頼朝がどういう論功行賞をするかと注目していたに違いないのです。
こう書いてくると、合戦の上手下手よりも、むしろ恩賞配分をうまくこなせたことが棟梁として認められた要因と思われます。頼朝は義経のように華々しい武功をあげてはいませんね、山木攻めは成功したものの、石橋山は大敗だったし富士川では敵が勝手に逃げてくれたようなものだし、佐竹氏を討ったのは主に上総広常ですから。それでも帰還してから「東国皆見其有道推而為鎌倉主」─東国の者は皆、頼朝を鎌倉の主として推戴した、と吾妻鏡には記されています。「見其有道」は『現代語訳 吾妻鏡』(五味文彦・本郷和人編、吉川弘文館)では「徳ある道を進むのを目にして」と訳されています。「有道者」といえば「徳のある人」という意味ですからこの訳で間違いありませんし、中世史の専門家の訳に意見を付すのも僭越ながら、「道」には「道理」とか「筋道」という意味もありますから、ここまでの頼朝の行為に「筋が通っているのを見て」と訳すのも良いかな、と個人的には思います。実際には承服していない勢力もあったので、「東国皆」は吾妻鏡の誇張表現ですけれども。後に壇ノ浦で、梶原景時が義経と先陣を争って「天性この殿は侍の主にはなり難し」とつぶやいた、という場面が平家物語にあるのが対照的。景時の “つぶやき” は平家物語の創作ではあるでしょうが、軍事的に強いことが棟梁の第一条件ではない、という認識を反映したものとは言えるでしょう。
平家物語といえば、富士川の合戦に先立って平維盛の諮問に答えた斎藤実盛の東国勢と西国勢の比較が、好きです。
治承4年(1180)10月16日に駿河へ向けて出陣した頼朝が鎌倉に帰ってくるのは1ヶ月後で、その間、吾妻鏡に鎌倉は出てきません。しかし、いくつか重要な出来事が起きているので覚え書きしておきます。
①富士川の合戦で勝利、そのまま追撃・上洛しようとするが千葉常胤・三浦義澄・上総広常らに止められる
②義経が遥々会いに来て兄弟対面
③御家人たちに本領安堵・新恩給与の初の恩賞配分を行う
④常陸の佐竹氏を討つ
感動的なのは②なんでしょうけれど、私が重視するのは①、上洛しなかったこと。水鳥の羽音に驚いて平氏の軍勢が逃げた、というのはこの前の大河ドラマでもやってましたね。大勝して、このまま京まで行くぞ!と気勢をあげたくなるのもわかりますが、関東の有力者たちは揃って止めている。関東には佐竹のように従わない勢力がおり、京にも敵がいるのだから、上洛は関東を平定してからにするべきだ ─ 喧嘩っ早い坂東武者たちがずいぶん冷静に状況判断しているではありませんか。もっとも、一所懸命という言葉ができるくらいに、この時代の武士たちにとって大事なのは〈所領〉ですから、足元不安定な時に遠出したくなかっただけかもしれませんが。この時点で頼朝が上洛していたら、鎌倉幕府はなかったかもしれません。
次に重要だと思うのは③。恩賞配分を誤ればすぐに人心が離れるのは古今東西同じことで。しかも、中世の武士団というのは江戸時代のガチガチに固まった儒教的上下関係とは違って、血縁や姻戚で結び付いた中小の勢力が横に繋がったり離れたりしている、ゆるい連合体です。一度「こいつダメだ」と思われたら、離反される程度で済めばまだしものこと、「棟梁の器でなければ討ち取って手柄にしよう」という上総広常の態度が、当時の武士団の長としては当たり前です。〈武士道〉なんて言葉が生まれるのは遥か後世、騙し討ちもするし大勢で寄ってたかって1人を討ち取るのも普通。現代人がイメージする〈サムライ〉とはだいぶ違っていると思います。この時代の人々、はっきり言って、かなり自由。恩賞に不満があれば「何であっちの方が多く貰ってるんだ!」と喧嘩を始めるのは目に見えてます。この時代の喧嘩って、一族郎党わらわら集まって来て合戦に発展しますから、平氏打倒どころではなく関東争乱状態になります。初めてのことですから御家人たちも、頼朝がどういう論功行賞をするかと注目していたに違いないのです。
こう書いてくると、合戦の上手下手よりも、むしろ恩賞配分をうまくこなせたことが棟梁として認められた要因と思われます。頼朝は義経のように華々しい武功をあげてはいませんね、山木攻めは成功したものの、石橋山は大敗だったし富士川では敵が勝手に逃げてくれたようなものだし、佐竹氏を討ったのは主に上総広常ですから。それでも帰還してから「東国皆見其有道推而為鎌倉主」─東国の者は皆、頼朝を鎌倉の主として推戴した、と吾妻鏡には記されています。「見其有道」は『現代語訳 吾妻鏡』(五味文彦・本郷和人編、吉川弘文館)では「徳ある道を進むのを目にして」と訳されています。「有道者」といえば「徳のある人」という意味ですからこの訳で間違いありませんし、中世史の専門家の訳に意見を付すのも僭越ながら、「道」には「道理」とか「筋道」という意味もありますから、ここまでの頼朝の行為に「筋が通っているのを見て」と訳すのも良いかな、と個人的には思います。実際には承服していない勢力もあったので、「東国皆」は吾妻鏡の誇張表現ですけれども。後に壇ノ浦で、梶原景時が義経と先陣を争って「天性この殿は侍の主にはなり難し」とつぶやいた、という場面が平家物語にあるのが対照的。景時の “つぶやき” は平家物語の創作ではあるでしょうが、軍事的に強いことが棟梁の第一条件ではない、という認識を反映したものとは言えるでしょう。
平家物語といえば、富士川の合戦に先立って平維盛の諮問に答えた斎藤実盛の東国勢と西国勢の比較が、好きです。
by kyougen-kigyo
| 2012-12-07 22:37
| 考察編
鎌倉、登山、日本刀、その他諸々
by 柴
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