今日は刀文協の鑑賞会でした

日本刀文化振興協会の公開鑑賞会、行ってきました。毎回勉強になるので忘れないうちに書いておきます。

出品刀:
三上貞直(刀)、長義(脇差)、明珍宗裕(刀)、泰龍斎宗寛(刀)、
山浦真雄(刀)、兼虎(脇差)、正直(刀)

コンセプトは備前伝とその影響、ということのようです。この中で一番備前を主張しているのは明珍さんでしょうか。三上さんの刀は身幅が広くて豪壮です。長船長義は大磨上げ無銘、ナカゴの下の方に素剣と草の倶利伽羅の彫刻が一部残っているので、元々は相当長かったと思われるものでした。

解説者の一人の宮入刀匠が坂城ですし、次の大河ドラマが真田で長野が盛り上がっているということもあって山浦一門が出てきたようです。あまり触る機会がないので何度も持たせていただきました。真雄の刀は長巻直しだから重ねが厚くて長さもあって重かった。砂流しがはっきり出ていてわかりやすい。松代藩の記録「刀剣切味並折口試之次第」の資料も頂きました。干し藁に始まって古具足だの鹿角だの鉄敷だの…詳細は「松代藩荒試し」などで検索すればいくらでも出てくるので割愛しますが、すさまじいです。大慶直胤の刀は全然だめだったといいますが…厳しいな、松代藩。真雄の長巻直しに並んで息子の兼虎の脇差、こちらは菖蒲造り。今週末に坂城と上田に行く予定なので、山浦一門を拝見できたのはちょうどよかった。
刀装具は平安城の丁子と蓑と唐草文様を象嵌した鍔が個人的には好きでした。

ゲームの影響と思われる若者が数人、来ていました。私は常々言っているのですが、入り口は何でもいい。本物の良さに気付いてくれれば。今日来て、真面目に刀を見ていた若者たちは、きっと模造刀じゃ物足りなくなりますよ。
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# by kyougen-kigyo | 2015-06-21 21:14 | 日本刀

泰衡追討の院宣

文治5年9月7日。宇佐美實政が生捕った泰衡の郎従由利八郎を連れて陣岡へ参上。ここで天野右馬允則景と相論になり、梶原景時が由利八郎を怒らせた話はだいぶ前に書きました(http://jinjitsu.exblog.jp/21805418/)。相論は實政の勝ち。由利八郎の態度を聞いて会ってみたいと思った頼朝、由利八郎に「泰衡は河田次郎一人のために誅されてしまった、2か国を管領して17万騎の貫主でありながら20日の内に一族滅亡したのは言うに足りないことだ」と言うと由利八郎に左馬頭殿は海道15か国を管領しながら1日も支えず零落して数万騎の主であったのに長田庄司に誅せられたのだからその甲乙は如何に、と言い返されてしまいます。それは当然言われるだろうなぁ、と思うのですが。由利八郎は畠山重忠預かりになりました。

8日、安達新三郎が合戦の次第を帥中納言に報告するために飛脚として上洛。
9日、鶴岡八幡宮臨時祭。流鏑馬など通常通り執行されましたが頼朝はまだ蜂杜に逗留中。高水寺の僧侶たち16人が、御家人の僕従が寺に乱入して金堂の壁板13枚をはがして持って行ったと訴えてきたので驚いた頼朝、景時に究明させたところ宇佐美實政の僕従の所為と判明したので、訴えてきた衆徒の前で刑を加えるようにということで…その刑罰がなかなかに恐ろしい。「令切件犯人之左右手於板面以釘令打付其手訖」当時としては普通なのかもしれませんが。頼朝はさらに寺の興隆のため所望があるかどうか聞きますが、僧侶たちは訴えが即座に裁断された上は所望なし、と寺に帰っていきました。頼朝はその他の藤原氏が建立した堂塔についても僧侶は罪科にはせず仏閣の数に応じて灯油田をあてることを表明しています。信仰心というより寺院勢力を敵に回すと面倒というのもあるでしょう。

この日の晩、京都の一条能保からの使者が陣岡に到着、7月19日付の泰衡追討の院宣を持参。使者の言によると24日に奉行蔵人大輔が帥中納言に送り、26日に帥中納言から一条能保に送られて28日に出京とのこと。それなら8月中に届きそうなものです。陣が移動しているから到着が遅れた可能性もありますが、7月19日といえば頼朝が鎌倉を出立した日ですから、後出ししながらその日付に合わせて院宣を書いたのでは。なにやら現代のお役所の書類と同じような感覚ですが。
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# by kyougen-kigyo | 2015-06-15 08:46 | 考察編

平泉~藤原泰衡滅亡

かなりサボってます。今月から少し時間ができそうなので頑張って吾妻鏡読みます。

さて、文治5(1189)年8月21日、頼朝の軍は平泉へ向けて進軍。泰衡は館に火を放って逃亡します。22日の申の刻に頼朝が到着した時には泰衡の平泉館はすっかり焼けて無人となり、ただ坤の角に一宇の倉が焼け残っていた、と吾妻鏡にはあります。葛西清重と小栗重成にその倉を開けさせてみたところ、沈や紫檀で作られた厨子が数脚、その中には牛玉、犀角、象牙の笛、水牛角、紺瑠璃の笏、金の沓や玉幡・華鬘、蜀江錦の直垂、縫わずの帷、金造りの鶴、銀造りの猫、瑠璃の灯爐、南廷百(銀のことらしいですが「各盛金器」とあります)、等々、珍しい宝物ばかり。隅っこに残っていた倉一つでこれですから平泉館が焼けてなかったらどれだけのものが残っていたか。象牙の笛と縫わずの帷は葛西清重に、玉幡や華鬘は小栗重成が氏寺の荘厳に使いたいという望みにより与えられました。「銀造猫」は頼朝も持ってましたっけ。西行への餞別になりましたが。西行は文治2年に頼朝と会った後、その足で奥州へ東大寺勧進に行っていますから、頼朝からもらった銀の猫、実はその辺の子供にあげたんじゃなくて奥州まで持って行って勧進の御礼に秀衡の所に置いてきた可能性もなくはない?

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# by kyougen-kigyo | 2015-06-01 19:25 | 考察編

リンク集更新しました

だいぶ前にまとめたリンク集ですが、若干の加筆修正しました。

●鎌倉関係
・鎌倉市
 http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/ 
 鎌倉市の公式サイト。HP左上の「かまくら観光」バナーから観光情報に入れます。

・武家の古都鎌倉 世界遺産登録を目指して
 http://www.bukenokoto-kamakura.com/
 神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市が共同で作っている世界遺産登録推進委員会のサイト。
 登録には至りませんでしたが、遺跡の紹介などあります。

●歴史データベース類
・国立国会図書館デジタルコレクション
 http://dl.ndl.go.jp/
 著作権保護期間の切れた書物が画像公開されています。吉川本『吾妻鏡』もこちらから。

・国文学研究資料館
 http://www.nijl.ac.jp/
 「電子資料館」から色々な史料データベースを見ることができます。
 吾妻鏡データベースはこちらから。

・東京大学史料編纂所
  http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
 「データベース検索」から史料データベースを見ることができます。
 花押やくずし字データベース、鎌倉遺文フルテキストデータベースも。

・東京国立博物館デジタルライブラリー
http://webarchives.tnm.jp/dlib/;jsessionid=AAAF7AA5D3B72D1CCB901DBE54B8635A
 最近、公開された東博の和書、洋書、漢籍デジタル画像。今後も史料追加されるようです。

●日本刀関係
・テノウチ・ムネノウチ待ち伏せ編
 http://ameblo.jp/kokaji-akihira/
 埼玉の刀鍛冶、川崎晶平さんのブログです。
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# by kyougen-kigyo | 2015-04-06 21:11 | リンク集

多賀城~玉造

文治5年8月13日、北陸道を進軍していた比企能員・宇佐美實政ら、出羽の国に入って泰衡郎従の田河大郎行文、秋田三郎致文らを梟首。頼朝、多賀国府へ。

14日、泰衡が玉造郡にいるという風聞があり、また国府中山上物見岡に陣取っているという報告もあり、迷った末に主力は黒河(黒川郡)を経て玉造へ直行、物見岡へは小山朝政・宗政・朝光、下河辺行平らを派遣。物見岡では確かに陣はあったのですが大将軍はすでに逐電、幕だけが残されており、4、50人の郎従がそこに留まっていましたが全員が梟首あるいは生捕りになりました。物見岡を制した後、朝政が大道に出て主力と合流するべきだろうか、というと行平が「玉造郡合戦者、可為継子(事)歟、早追可参彼所者」と答えています。私は基本的には吉川本『吾妻鏡』(国書刊行会。国立国会図書館のデジタルコレクションで全文公開されているので便利)を使っています。この「継子」の部分、わからなかったので『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)と岩波の読み下し版『吾妻鏡』の助けを借りようと思いましたが解釈が分かれているようで…

『現代語訳吾妻鏡』では「継子」を地名と見て、「継子で合流しよう」というニュアンス。注釈には宮城県石巻市に継子前の字があるが未詳、と書かれています。岩波文庫版『吾妻鏡』では「子」ではなく「事」を採用して「継の事たる可きか」、つまり玉造郡の合戦は物見岡に続く合戦だから早く行こう、という意味でしょうか?
両書、全然違う解釈。私にはどちらとも判断付かないのですが、ただ、地名の「継子前」説をとると、この後の進軍経路がちょっとおかしくなるような気がします。20日の卯の刻に、頼朝軍は泰衡の「多加波波城」を囲んでいます(泰衡は逃亡済み)。「多加波波城」は『現代語訳吾妻鑑』では「たかばば」と振り仮名を振っているものの、所在地未詳、一説に宮城県大崎市岩出山字葛岡、と注釈があります。多加波波城を取った後、葛岡郡に出て平泉に赴く、と書かれていますから、多加波波城がどこであったにせよ多賀城からは内陸方面に向かったわけです。ところが継子前は石巻市ですからだいぶ海側。14日条の「経黒河」という経路からもちょっと逸れてしまいます。だから注釈でも「未詳」の一言が付いているのでしょう。現代の字・継子前は関係なしにどこかに「継子」という地名があったのかもしれませんが。研究し尽くされていそうな書物でもまだまだ分からないことは多そうです。

さて、多加波波城の奥州勢は合戦するまでもなく投降。20日の夜、頼朝は先陣の軍士らのうち、小山・三浦・和田・畠山・武蔵国党の者たちに今後の合戦における注意事項を書いた書状を遣わしています。曰く、平泉で泰衡が立て籠もったら僅か千騎、二千騎で馳せ向かってはならない、二万の軍兵を調えて競い至るべし、すでに敗北した敵であるから味方に一人も害が無いように。ここまでは関東勢、かなり突っ走って抜け駆けしたい放題という感じでしたが、もう大勢が決したのだから被害は少なくするように釘を刺された形です。
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# by kyougen-kigyo | 2015-04-05 20:38 | 考察編


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