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頼朝、出陣

文治5年7月12日、鎌倉ではもう勅許が無くても出陣してしまえという空気ですが、重ねて奥州泰衡追討の宣旨を要求する手紙を京都へ送っています。16日、京都の一条能保の使者後藤基清と、先日(って何度も出しているからどれだかわかりませんが)鎌倉から上京した飛脚、到着。相変わらず宣旨は出ません。念のため玉葉のこの時期を見てみたのですが、鎌倉や奥州に関する記述は見当たりませんでした。関わりたくなかったのか、興味がなかったのか。

7月17日、奥州下向直前の作戦会議。それによれば、

①東海道からは千葉常胤と八田知家を大将軍として、それぞれ一族ならびに常陸下総の勇士等を具し、宇大行方から岩城岩崎経由で、遇隈河(阿武隈川)を渡り(大手勢と)合流。
②北陸道からは比企能員と宇佐美實政を大将軍として下道を経、上野国高山、小林、大胡、左貫らの住人を催しつつ越後国から出羽国念種関(鼠ヶ関)へ出て合戦する。
③頼朝は大手、中路から下向。先陣は畠山重忠。

ということで太平洋沿岸・日本海沿岸・内陸の3手に分かれて進軍することに。翌日には早速、②の比企能員が出陣しており、19日には頼朝が出陣。頼朝自身がまともに出陣するのはいつ以来だろうか、ずいぶん久しぶりです。吾妻鏡の7月19日条には頼朝に従って出陣した御家人たちの名前が列記されていますが、その中に①の大将軍であるはずの八田知家の名前があり、この名簿が正確なら途中まで大手勢と一緒に行って分かれたことになります。名簿に千葉常胤の名前はないので千葉氏は所領から出陣したのかもしれません。

7月(新暦でいう所の8月)に出陣したのは当然、奥州の冬の寒さや雪を避けるためでしょう。奥州追討が終わって頼朝が鎌倉に帰ってきたのが10月の末、今でいえば11月の末。遅くなればなるほど不利になる、だから朝廷に早く宣旨を出せとしつこく要求して、もうこの辺がリミットだということだったのかもしれません。この後の吾妻鏡は大手の進軍の様子が続きます。
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by kyougen-kigyo | 2014-09-27 17:52 | 考察編

奥州藤原氏追討へ

だいぶサボり癖が付いてしまいました。そろそろ文章書きたくなってきたのでぼちぼちと吾妻鏡の読み進め。奥州藤原氏追討の話でした。私、半分東北の血が入ってますので若干書き難さを覚えるのですが。

前回の吾妻鏡、義経の首実検の所まで書きました。これが6月13日。24日、小山朝政が献じた絹でもって千葉常胤に旗を調進するよう命じています。その晩届いた京都の一条能保からの手紙に、朝廷の議論は義顕(義経)はすでに討たれたのだから奥州追討の儀は猶予するように、という方向になっている旨が記されています。これを受けて25日、追討の宣旨を下すよう重ねて京都へ要請。
26日には奥州で兵革、泰衡が宣下に従い弟の泉三郎忠衡を誅したとのこと。奥州は奥州で朝廷の支援を得ようと必死です。
27日、奥州征伐の沙汰のほか他事なし、という状態で鎌倉には軍勢が催されその数すでに一千人(もっとも再々書いているように吾妻鏡の数字はあてになりません。)また、例年8月に行われる鶴岡放生会は前倒しで7月1日に行われることになりました。

6月30日、大庭平太景能は古老であり兵法故実を知っているので頼朝に呼ばれ、奥州征伐のことにつき聞かれます。天聴を窺うに勅許が無く、御家人を召集したもののどうしたらよいか、という問いに、景能は思案するまでもなく「軍中聞将軍之令、不聞天子之詔云々、已被経奏聞之上者、強不可令待左右給、随而泰衡者受継累代御家人遺跡者也、雖不被下綸旨、加治罰給、有何事哉、就中群参軍士費数日之条、還而人之煩也、早可発向給者」と返答。これに御感あり景能は御厩の馬を賜っています。「軍中聞将軍之令、不聞天子之詔」というのは史記あたりから引っ張ってきているようです。つまり大庭景能は史記、あるいはそれを引用したような書物を読んでいた、なかなかの勉強家だったのだろうということ。
なお、馬を庭上に引いたのは小山七郎朝光でしたが、景能は縁側にいて、朝光は馬の縄の端を景能の前に投げ、景能は座ったままこれを取り、郎従に渡しています。その場に頼朝がいなくなってから景能は朝光に、自分は老人であるうえ、保元合戦の時の傷で歩行が不自由である(=馬を受け取りに庭に下りられなかった)、拝領の御馬の縄を投げてくれた芳志は千金に値すると礼を述べています。小山朝光は頼朝のお気に入りの一人ですが、こういう気のまわる所が評価されたのでしょう。

7月1日は予定通り鶴岡放生会が行われ、8日には千葉常胤が新調した御旗を献上。旗は頼義の故実に倣って寸法は一丈二尺、二幅、白糸の縫い物で上に「伊勢大神宮八幡大菩薩」下に鳩が二羽向かい合っている姿(源氏は白旗のはずですから白い絹布の上に白い糸で刺繍したということ?)。常胤に調進させたのは治承4年挙兵の時の佳例により、小山朝政に絹を進上させたのは小山氏の先祖藤原秀郷が朝敵を滅ぼした吉例によるとのこと。この旗は三浦義澄が御使となって鶴岡別当坊に遣わされ、宮寺(鶴岡八幡宮)で七日間加持することになります。また、下河辺行平が御鎧を調進。普通は袖に付ける笠標が冑の後ろに付いていたので頼朝が問うと、これも秀郷の吉例ということで、こういう時は各家の吉例だの故実だのがよく出てきます。
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by kyougen-kigyo | 2014-09-13 15:19 | 考察編


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