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義経追討

文治5年(1189)2月25日、鎌倉から奥州へ泰衡の形勢を伺わせるための使者を派遣。翌日、入れ替わるように去年奥州へ行った官使が上洛途中で鎌倉に逗留した由。

奥州とは関係ありませんが、2月28日に彗星が出現したという記事が出てきます。彗星のような天変は凶兆とされることが多いので、京都側では天文奏など提出されていますが、吾妻鏡では頼朝が寝所から出てご覧になった、という記述のみ。その時に随従したのが三浦十郎義連、小山七郎朝光、梶原源太景季、八田太郎朝重。「夜中出御之儀常如此、是皆近仕也」とそっちの方が重要視されているような。鎌倉時代も最初の頃だとあまり吉凶とかには興味がなさそう。実朝の時代になると京都と同じような占い騒ぎが起きるようになりますが。

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by kyougen-kigyo | 2014-07-20 20:55 | 考察編

久しぶりに吾妻鏡

最近、吾妻鏡どこまで読んだか忘れてきてしまいました…文治4(1188)年、奥州へ向けて動き出しているところですね。文治4年の下半期の動向。

8月9日、台嶺の悪僧が義経に味方したこと、及び泰衡が義経を匿っていることについて、朝廷の御沙汰が遅いという催促が京都の右武衛(一条能保)に伝えられています。

9月14日、梶原景時が預かっていた囚人・城四郎長茂を、師檀関係にある僧・定任が赦免して御家人に加えて欲しいと願い出たため、頼朝と対面の座を設けるも、呼び出された長茂が間違えて頼朝の席に座って恥をかいたため沙汰やみに。長茂の先祖は狐に育てられたという伝説も記載されています。狐女房譚にはなっていないようですが、類話として扱ってよいものでしょうか。
ちなみに長茂は翌年7月19日、鎌倉から奥州へ出兵する間際に景時の言上により赦免され、8日後に下野の新渡戸で御家人らの手勢の着到を出させたところ、長茂の郎従が200余人になっていたので頼朝が驚き、景時が散り散りになっていた郎従が旗を見て集まってきたのだと説明した話が出ています。

10月25日、義経追討の宣旨状の案文が鎌倉に到着。正本は奥州へ向かっている、とのこと。「若従凶徒於図逆節差遣官軍宜令征伐」とだいぶ脅しが入ってきました。

奥州の話とは関係ありませんが、11月27日条には相模国豊田庄にある大庭景能の父・景宗の墳墓が盗掘されたという事件が出てきます。「群盗競来掘開彼塚、盗取所納之重宝等」とあります。鎌倉時代の墳墓というのはどういう形態だったのか、一番有名なのは鎌倉によくある「やぐら」ですが、大庭氏の墓は「塚」とあるから岩窟形式ではなく埋葬形式。鎌倉時代の上層部なら火葬も行われていましたが、この文章からは土葬か火葬かは不明です。盗掘されるくらいですから副葬品もそこそこ入っていたのでしょう。

12月11日、義経追討の宣旨が再度出された上に院庁下文も添えられて官吏が下向、この日、鎌倉に到着。内容は前と同じく義経を捕らえなければ官軍を遣わすというものです。こう見てくると宣旨というのは随分たくさん出されているのだな…という感じがします。
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by kyougen-kigyo | 2014-07-05 20:36 | 考察編


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