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得業聖弘のこと

今日は薄曇り、空気が冷たいと思ったら風花が舞っていました。ここのところ毎週雪を見ています、東京では珍しいことに。


文治3年(1187)3月8日、義経を南都でかくまっていた僧・周防得業聖弘が鎌倉で頼朝と対面し、問答。ちなみに「得業」は僧の階級名、「周防」は出身地? なので名前は「聖弘」です。吾妻鏡では「聖仏」とも書かれています。前年9月の義経捜索騒動で捕まって鎌倉に召し下され、小山七郎朝光に預けられていたようです。

「予州者欲濫邦国之凶臣也、而逐電之後、捜求諸国山沢、可誅戮之旨度々被宣下畢、…中略…貴房独致祈祷、剰有同意結構之聞、其企如何者」という頼朝直々の問いに対して聖弘は、「予州は君の御使として平家を征した時、合戦無為の祈祷を契約したので年来丹誠を抽んでてきた、報国の志ではないか。予州が関東の譴責を蒙って逐電した時、師檀のよしみで南都に来たので、まずは害を遁れて二品に謝罪するよう諷詞を加え、下法師を添えて伊賀国へ送った。その後は全く音信不通である。謀反を祈祷したのではない、逆心を諫めたのである。」─という申し開きに加えて、「関東の安全は予州の武功によるものであり、讒訴によってその奉公を忘れ恩賞地を召し返されたら逆心を生じるのも当たり前だ。早く兄弟魚水の思いを成して治国の謀りとするべきである」と義経だけでなく頼朝を諫める言葉を堂々と述べました。頼朝、こういう真っ直ぐな諫言にはわりと弱い。「得業の直心に感」じて、勝長寿院の供僧職とし関東の繁栄を祈祷するよう仰せ含められた。─ というのが得業聖弘の一件。

『現代語訳吾妻鏡』の注釈でも得業聖弘の生没年は不詳とあるので、この時聖弘が何歳だったのかはわかりません。多分、義経もこの調子で諭されたのでしょうから、兄弟そろって聖弘に叱責されたかたちです。頼朝は聖弘の言葉に納得した様子もないけど反論した様子もない、あまりに正論を述べられてぐうの音も出なかった、というところ。
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by kyougen-kigyo | 2014-02-23 20:56 | 考察編

義経、奥州へ

今週も雪でしたね。先週と違って重たい雪だったので庭の木の直径5センチほどの枝が折れていました。

さて、文治3年(1187)2月。
ついに義経が畿内を離れて奥州へ。この行動が結果的に、頼朝に奥州藤原氏討伐の大義名分を与えてしまうことになります。

吾妻鏡の2月10日条に「前伊予守義顕、日来隠住所々、今度遁追捕使之害訖、遂経伊勢美濃等国赴奥州、是依恃陸奥守秀衡入道権勢也、相具妻室男女、皆仮姿於山臥幷児童等云々」。前年末に義行から義顕に再改名されています。妻室というのは正妻・河越重頼の娘であり、息子や娘も伴っています。それまで家族はどこに隠れていたんだか? 道程は伊勢、美濃を経て、とあります。この前、奈良に行った時に伊勢や鳥羽が意外と近いんだな、ということは感じていました(旅先を奈良にするか伊勢にするかで直前まで迷っていたもので気になったんです)。義経は南都をメインに転々としていたようですから、国境の山を東に越えて伊勢に出たのでしょう。そこからがよくわかりませんね。美濃へ出た、ということは船は使っていないということか。東海道は頼朝の直轄下ですから、なるべく避けたかったはずです。女子供が一緒ですからそれほど速くは進めなかったと思いますが、翌月5日には義経が陸奥の国にいて秀衡も歓待していることが確実になったため、鎌倉から「厳密可被召尋之旨」京都へ申し立てた由が出ています。

ところで、義経は何を目指し、何がしたかったのか。五位を貰って素直に喜んでいるところを見れば官位を高めたかったのはわかります。引っかかるのが静御前の存在なんです。感傷抜きで見た場合、「天下の名人」と称される白拍子を妾にする、という行動は、祇王、祇女、仏を寵愛した平清盛と似ています。人気のある白拍子を側に置くというのはひとつのステータスでもあります。義経が目指したのは、朝廷内で官位を高める清盛のような立身出世だったのではないか、と思うのです。であれば、官位を貰うなという頼朝の言は絶対に理解できないし、その在りようは朝廷を離れてはあり得ない。だからこそ追討の宣旨が出てもなお1年以上、危険な京都を離れようとしなかったのではないですか。自分で平氏を滅ぼしておきながら、それと同じ姿を目指してしまったのが義経。
しかし当時としてはそういう思考回路が常識的な立身の方法だったわけで、その点、義経の方が兄よりずっと常識人だったのではないかという気がします。頼朝の思考回路を理解して行動できたのは大江広元くらいだったんじゃないかな。
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by kyougen-kigyo | 2014-02-15 20:38 | 考察編

大雪警報ですね

東京、珍しく雪らしい雪になっています。いつものべちゃべちゃとした水気の多い雪ではなく、歩くとキシキシと音がするような。せっかくなので写真UP。
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庭の寒椿がこの通り、埋もれてしまいました。アンズも蕾が寒そう。
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by kyougen-kigyo | 2014-02-08 16:09 | その他

風邪には気を付けましょう。

先週は風邪をひいてて更新する気力が出ませんでした。めったに病気しないので久々にちゃんと風邪をひいてびっくりした・・・毎朝通勤ラッシュの電車に乗るのに、めんどくさがってマスクをしなかったせいです(多分)。
回復したので吾妻鏡の続き。

文治2年(1186)9月9日、重陽節にあたって藤原邦通が菊花を献上。「被栽北面之壺」とあるので切り花ではなく根付きの状態でしょうか。気に入ったのか、毎秋必ずこの花を進上するように、との仰せ。花の枝には一紙が結び付けられていて、頼朝が開いてみると絶句詩が書いてあった、とありますが、その漢詩の内容までは吾妻鏡には記載がありません。

この後はまた義経の所在探しの話題が続いて、9月22日には在京していた武士・糟屋藤太有季によって義経の家人・堀弥太郎景光が捕まり、佐藤忠信が自害したとのこと。玉葉にも簡単にこの件は記述があります。文治2年9月20日条、「伝聞九郎義行郎従二人(堀弥太郎景光、四郎兵衛尉忠信)、搦取了、忠信自殺、景光被捕得云々」。佐藤忠信、歌舞伎に出てくる狐忠信で有名な人です。屋島の合戦で討たれた佐藤継信の弟で、奥州から義経に従った忠臣。吾妻鏡によれば宇治で義経と別れて洛中に帰り、密通していた女に手紙をやったところ女は現在の夫にその手紙を見せたので、夫は有季に通報。多勢に攻められて洛中、中御門東洞院で郎従二人と共に自害しました。
生け捕りになった堀弥太郎の方はというと、最近義経は南都の得業聖弘という僧侶の許にいたこと、木工頭・藤原範季の所にたびたび使者として赴いたことを白状。そこで南都が捜索されますが、義経は見つからなかった上に南都を荒らされた大衆が騒いで「可停止維摩大会之由」、つまり維摩会をストライキしてやる!と言っているとの風聞が流れました。南都北嶺の扱いの難しさが伝わってきます。この辺のことを玉葉で確認してみると、9月22日条に「昨日卯刻、武士二三百騎、打囲観修房得業聖弘房、忽以追捕寺家、不知何事、仍僧正遣使者被尋之、申云、九郎判官義行在此家、仍為捕取也云々、其上不能是非、然間散々追捕、聖弘逐電了、武士無成事即帰洛、…」という騒ぎで兼実が藤原氏の長者として行おうとしていた春日社の唯識会も延引、兼実にとっては唯識会の方が大事だったようです。ちなみに維摩会は無事執り行われた模様。

11月に入ると頼朝はまた藤原経房宛てに書状を送り、京中諸人が義経に同意しているから義経が捕まらないのだ、と苦情を申し立てています。玉葉の方にもこの書状は出ており、それによれば「南北二京、在々所々、多与力彼男、尤不便、於今者差進二三万騎武士、山々寺々、可捜求也、」と吾妻鏡には出ていない過激な文言。といってもこれは勿論ただの脅しで、それじゃ大ごとになるから公家の沙汰として召し取るべきだ、と続くのですが。堀弥太郎の白状に出てきた藤原範季もこの書状で訴えられて解任に至っています。そして、11月末には義経捜索の宣旨をまた畿内と北陸道に下すこと、京中を捜索すること、諸社奉幣や祈祷を行うことなどが鎌倉に伝えられました。
前にも書きましたが、この時期、義経は勝手に改名されたので吾妻鏡でも玉葉でも「義行」と記されています。
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by kyougen-kigyo | 2014-02-06 19:47 | 考察編


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by 柴

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