<   2013年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧

川苔山。

先日、奥多摩の川苔山に行ってきました。笹尾根をのんびり歩く計画を立てていたのが、前日になって国体の自転車レース会場として交通規制されていることに気づき、行先変更。こういう急な変更の時は慣れた山が良いので馴染みの川苔山へ。川苔山初体験の同行者1名。

8時50分、川乗橋バス停から歩き始め。9時30分、細倉橋登山口。このコースは最初の林道歩きが長いのが難点です。台風18号の影響で1ヶ所橋が落ちたと聞いていましたが、これが流された橋の残骸。
c0263829_1952870.jpg
川には石を並べて渡渉できるようになっています。とても歩きやすく並べられているので、これなら橋いらない(増水時は別ですが)。
c0263829_19522615.jpg

川苔山は風雨の影響を受けやすい気がします。これまでも何度も荒れた状態を見ました。登山道が崩れていたり土石流の跡があったり倒木がひどかったり。でも人気のある山なので復旧が早いのも特徴ですね。整備してくださっている方々に感謝。
ちなみに、2010年に大量の倒木(おそらく鉄砲水で流されてきたもの)で登山道がふさがれていた時の写真。古い携帯で撮ったので小さくてわかり難いですが。この時もちゃんと新しいルートが造られていました。
c0263829_19524376.jpg

さて、奥多摩一の名瀑・百尋の滝を通過して、11時30分に山頂到着。良い天気です。紅葉は、まだですね。
c0263829_19525437.jpg

日曜でしたが登山道及び山頂は思ったほどの混雑ではなく、昼食休憩して12時5分に出発、いいペースで下って14時10分、鳩ノ巣に下山。トータル5時間20分。この山、最初の頃は6時間半近くかかっていたものです。
今年はスズメバチが多いと言われていますが、本当に多い。川苔山ではあまりスズメバチ遭遇したことがないのですが(もちろん皆無ではありません)、今回は何度も出てきました。要注意です。
[PR]
by kyougen-kigyo | 2013-09-30 20:03 |

勝長寿院の栄枯盛衰…

頼朝が父の菩提を弔うために御所の東南に土地を決めて建立した大御堂、勝長寿院。頼朝と義経の緊張が高まっていく間にも着々と工事は進んで、文治元年(1185)8月30日には京都から、東の獄門で探し出された義朝の首と、鎌田正清の首が勅使によって鎌倉に送り届けられます。東西獄門の辺りなんて晒し首だらけだったと思うので、20年以上前の首をどうやって特定したのかは不明です。最初の内は名札が付いていたかもしれませんが…それとも重要人物はちゃんと保管されてたのか?…まぁ、あまり深く考えないことにして、9月3日に埋葬が行われ、10月24日に盛大な落慶供養。

続きを読む
[PR]
by kyougen-kigyo | 2013-09-27 23:49 | 鎌倉歩き

人物評② 源範頼・義経

※お詫びと訂正。前回、保元の乱と平治の乱を勘違いしておりました。ものすごく初歩的なミスをしてしまった…修正済みです。

さて、頼朝と対照的な性格なのが義経。吾妻鏡によれば義朝の六男で(実際は「九郎」だから九男)、平治の乱の時は生まれたばかり。幼名が牛若丸なのは言うまでもないですね。鞍馬寺に預けられ、その後奥州へ逃れて、治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると奥州から参陣。義仲と平氏の追討で大活躍するも、頼朝に嫌われて朝敵として追われる身に。逃避行の末、文治5年(1189)閏4月、奥州で討たれる。享年31歳(数え年)。
治承4年から元暦元年までの約4年間は鎌倉にいたはずですが、鎌倉でのエピソードは少ないので、彼がどういう立場だったかは不明です。吾妻鏡では、ちょっと我儘な一面が見えています(2013年1月20日のブログ参照)。義経の存在が顕著に出てくるのは元暦元年(1184)、義仲追討のために上洛してからですが、範頼と違って鎌倉に手紙を送ったりしていないので(これも頼朝の不興を買った一因のようですが)、人柄がつかみにくい。前回に倣って箇条書きしてみれば、
・戦術に長ける実戦向きの人
・政治的な大局は見えてなさそう
・貴族嗜好があったような印象を受ける(官位を欲する、平時忠の娘婿になる、など)
・人望は薄い
どちらかというと木曽義仲と似たタイプだったのではないでしょうか。

続きを読む
[PR]
by kyougen-kigyo | 2013-09-22 23:54 | 考察編

人物評① 源頼朝

とりあえず、鎌倉といえばまずはこの人。
久安3年(1147)に源義朝の三男として生まれる。12歳の時に平治の乱にあい、一度は義朝や兄と落ち延びるも、はぐれて捕虜に。死罪になりそうなところを清盛の継母である池禅尼のとりなしで伊豆配流となり(伊豆ってそれだけ僻地扱いだったんでしょうね)、その後24年間、伊豆に雌伏。治承4年、33歳の時に以仁王の令旨に応じて挙兵し、平氏を滅ぼし鎌倉幕府を創設する。建久10年(1199)正月、没。
簡単に言えばこういうプロフィールになります。最近の当ブログでは38歳の頃のことを書いています。

続きを読む
[PR]
by kyougen-kigyo | 2013-09-16 14:32 | 考察編

源平合戦後

文治元年(1185)3月、壇ノ浦にて平氏滅亡。4月11日、義経の使者が鎌倉に到着し、合戦の次第を報告。範頼は九州での事後処理に当たり、義経は生け捕りの者たちを連れて上洛するようにという指示が出る。4月14日、頼朝、院の褒詞を受ける。
これが壇ノ浦後の流れですが、後白河法皇から褒詞を受けた直後の4月15日、頼朝は関東の御家人が頼朝の推挙なしに勝手に朝廷の官職を貰っていることを名指しで厳しく叱責する(というよりほとんど罵倒する)文書を送っているのです。

  下 東国侍内任官輩中
   可令停止下向本国各在京勤仕陣直公役事
    副下交名注文一通

と題されたこの手紙には、東国には戻らず京都で勤めよ、墨俣(現・岐阜県大垣市墨俣町周辺)より東に下向することがあったら本領を召上げ斬罪とする、とまで書かれています。寿永二年十月の宣旨(1183)で東海道・東山道の実質支配権を得ていますから、墨俣より東は頼朝の縄張りという理解でしょう。頼朝の推挙を経て任官した場合は頼朝の恩を蒙ったことになりますが、勝手に任官した場合、それは頼朝から離れて朝廷の臣となったということを意味します。だからそういう連中に対して、朝廷の臣となった以上は朝廷で勤めよ、もう帰ってこなくていい! と言っているわけです(そこまで深く考えて任官した人はほとんどいないと思いますが)。一応、朝廷を上に戴く形を取りつつ独立した政権を目指す姿勢が表れています。
列挙されたのは24名。それぞれに、過去に義仲に味方していたことや平家方であったことを蒸しかえしたり、性格や見た目や声までけなしたりする内容(「目ハ鼠眼ニテ」とか「音様シワカレテ」とか…「顔ハフワフワトシテ」ってどんな顔だ?)。この書状、頼朝が自分で書いたものとしたら結構、毒舌家だったんではなかろうか、この人。24人の中には、奥州から義経に従っている佐藤忠信や、梶原一族(景時は入っていない)、八田知家や小山朝政といった有名どころまで入っています。もっとも、この人々は後にも普通に登場しているので、本当に罰されたりしたわけではないようです。リストの筆頭に来そうな義経の名前が無いのが意味深な。というより、暗に義経に対する警告とも感じられます。

そして4月21日、義経の独善を訴える景時の書状が鎮西から到着。これで景時の悪名が高くなってしまっているのですが、ここまでの義経の行状・性格を見ていると、さもありなん、という気もするのです。もちろん、吾妻鏡や平家物語は彼らの実像を描いたものとは限りません。多分に虚飾が入っている可能性があります。しかし、どうしても私には後世長く語られているような「冤罪で兄に追い詰められた悲劇の英雄」には見えないのです…そもそも勝手に官職に就いた時点で頼朝の怒りを買うことは必定だった。しかも頼朝が次に狙う奥州とも関わりが深い。吾妻鏡を信用すれば、養和2年(1182)にはすでに奥州討伐を決めていたのですから(2013/3/31のブログ参照)。景時の讒言が有っても無くても同じことだったでしょう。この辺の人物評もしてみたくなってきた。
[PR]
by kyougen-kigyo | 2013-09-08 19:47 | 考察編


鎌倉、登山、日本刀、その他諸々


by 柴

プロフィールを見る
画像一覧

カテゴリ

全体
鎌倉歩き
考察編

日本刀
展覧会
リンク集
その他
未分類

以前の記事

2017年 06月
2017年 04月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
more...

最新の記事

戸倉三山縦走
at 2017-06-11 14:04
春の山へ
at 2017-04-21 20:27
陶磁器の論文発表中
at 2017-04-12 22:41
二階堂川の源流へ
at 2017-02-26 20:07
展覧会3つ
at 2017-01-23 20:42

最新のコメント

外部リンク

ファン

検索

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
登山

画像一覧