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三井の大妖怪展

先週、三井記念美術館の大妖怪展に行ってきました。
なかなか力の入った展覧会で見ごたえがありました。個人的に嬉しかったのは「十二類合戦絵巻」が出ていたこと。学生時代、都立図書館で御伽草子の調べ物をすることがあって、室町時代物語大成を読み漁っていた時に期せずして大うけしたのが「獣太平記」、十二支の獣たち=都の貴族と、狸を筆頭とする山の獣たちが合戦をするお話。大成本には絵はなく文章だけですが、あまりに面白くて調べものとは関係なかったのにコピーを取ってしまったくらいです。その「獣太平記」を絵巻にしたのが「十二類合戦絵巻」。剃髪する狸がかわいい・・・
室町時代物語大成(補遺を含めて全15巻)、他にも面白い物語がたくさん収録されています。現在に伝わる狂言と通じるような筋の話も。600年前の話で笑えるんですから人間、変わってないということです。
その他、展示では三井の能面コレクションからいくつか出ていました。氷見の「痩男」、さすがの迫力。何年か前の能面の展覧会の時に氷見の幽霊面シリーズが並んでいて凄かったっけ。おもかげの孫次郎も見たいし、また能面展やらないかな。

そういえば、先日都立中央図書館に行ったら「江戸から伊勢へ 絵図でたどる東海道と伊勢路」という企画展をやっていました。こういう小さい企画展示も、けっこう面白いので好きです。
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by kyougen-kigyo | 2013-07-28 21:50 | 展覧会

元暦元年残り

 前回の吾妻鏡、中途半端に終わったので元暦元年を最後まで。

 11月26日、頼朝は父・義朝の菩提を弔うための伽藍を建てる土地を鎌倉中に探し、御所の東南に決定。この伽藍は勝長寿院と呼ばれ、源氏の菩提寺として鎌倉屈指の大寺院になりますが、現存はせず、わずかに「大御堂ヶ谷」という地名が残っています。吾妻鏡には「南御堂」の名でも出てくるこの大寺院、本格的な発掘調査はまだされていないようです。住宅地ですから、せいぜい個人の家の建て替えの時に緊急調査する程度しかできないでしょう。大規模な発掘調査は見込めませんね。住んでる人がいる以上、仕方のないことです。ましてや室町時代頃には廃寺になっていたようですから。

 12月7日、平行盛、五百余騎を率いて備前児島に城郭を構える。平家追討使として向かっていたのが佐々木盛綱。行盛に挑発されますが船がなく(船は行盛が押さえていたのでしょう)、藤戸の海を馬で押し渡り、行盛を追い落とす。いわゆる「藤戸渡し」です。盛綱が地元の住人に浅瀬を教えてもらった後、秘密を守るためその住人を殺して藤戸を渡ったという話が平家物語にあり、謡曲や歌舞伎などにいろいろ脚色されていますが、吾妻鏡にはその話は出てきません。
 ところで西の方の地理には疎いのですが、備前児島って島だったんですね。江戸時代からの干拓で地続きになったそうです。どうも「藤戸渡し」と「児島が島だったこと」が頭の中で繋がってませんでした。そうか、児島高徳の頃も島だったんだ・・・
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by kyougen-kigyo | 2013-07-21 20:45 | 考察編

猛暑の伊豆ヶ岳

この暑いのに、奥武蔵の伊豆ヶ岳~子ノ権現登山してきました。同行者4名。
正丸駅~馬頭観音分岐で正丸峠へは行かずに左の登山道へ。案内板が正丸峠方面にしかなくなっていたので不思議に思ったら、道がけっこう荒れていました。土石流の痕跡もあったので、看板を外したのかもしれません。道は新たにつけられていたので問題はありませんが、雨が降ると赤土がぬかるんで難所になると思われます。このコースは何度か来ていますが、数年前には女坂が崩れて巻道が付いたり、時々道が変わっています。それと、スズメバチ遭遇率が高いです。

とにかく、暑かった。当たり前ですが・・・伊豆ヶ岳~子ノ権現縦走コースは人気がありますが、今回は暑さのせいか、世界遺産で盛り上がっている富士山に集中したせいか、連休中日にもかかわらず人は少なめ。

子ノ権現で、いつも思う。本堂の中に「君不見黄河之水天上来 奔流到海不復回」の一聯が掲げられていますが、これ、李白の「将進酒」の出だしですよね。友人に酒を勧める歌ですが。お寺で酒の歌掲げてていいのか? 私はこの詩は好きだから別にいいのですが。

下山後、飯能で打ち上げ。飯能は夏祭りの最中でとても賑わっていて、久々に祭りの雰囲気を味わってきました。
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by kyougen-kigyo | 2013-07-15 21:22 |

吾妻鏡、元暦元年(1184)6月~

6月5日に朝廷で小除目が行われ、20日にその報告が鎌倉へ到来。頼朝の依頼通りの人事で権大納言が平頼盛、讃岐守に一条能保、参河守に源範頼、他。義経は頻りに官途につきたがっていたけれども頼朝はあえて許さず、範頼の方を推挙したとあります。平頼盛は平家都落ちの時に京都に残り、源氏に敵対せず、この年には鎌倉に来て頼朝に歓待されて、ちょうど除目の行われていた6月5日に京都へ帰るために鎌倉を出発しています。清盛の弟という平氏一門では重要なポジションでいながら不思議な人物です。頼朝としては、頼盛は20年前に自分の命乞いをしてくれた池禅尼の息子であるという好意の他に、権力を一族で固めた平氏とは違うぞ、ということを世間にアピールしたかったのではないかと思います。

8月8日、範頼らが平家追討使として、西海へ向けて出発。
8月17日、義経の使者が鎌倉に参着、6日に左衛門少尉に任ぜられた旨を伝える。義経も平家追討使として京都を出るはずだったのですが、この勝手な任官が頼朝を怒らせ、義経の出陣は一時見合わせとなります。それでも京都の押さえ役は他にいなかったようで、9月には平氏方で討たれた平信兼の京都の所領を義経に与えており、9月14日には河越重頼の娘が義経に嫁すために上洛しています。しかし、10月になって中原広元から、9月18日に義経が院と内裏への昇殿を許された(=五位に叙任された)ことが報告されています。頼朝の意向と義経の希望のすれ違いが顕在化してきました。

一方で鎌倉の組織作りが着々と進んでおり、8月24日に行政を預かる公文所の上棟式、28日には門が立てられ、10月6日には吉書始め。公文所の別当には中原広元が任ぜられます。また、10月20日には裁判を扱う問注所の体裁も整ったようで、こちらは三善善信が任されています。文官が重用されるようになってくるわけですが、11月21日には藤原俊兼という人物が華美を咎められています。もともと派手好きな人だったようですが、この日は頼朝に呼ばれて特に装っていたようで、「着小袖十余領、其袖妻重色之」わかりやすく言えば十二単のように、小袖を重ね着して袖の部分に色を重ねて(いわゆる「襲の色目」というやつ)着飾っていたわけです。頼朝はこれを見て、俊兼自身の刀でその小袖の褄を切り取り、叱っています。どうもこの行為は他の文官に対する戒めでもあったようで、その場には中原広元や藤原邦通もいて「皆銷魂」とあります。
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by kyougen-kigyo | 2013-07-06 14:03 | 考察編


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