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一ノ谷

寿永3年2月。
1日、義仲追討の一方の大将だった範頼が頼朝に怒られています。これは上洛の時、墨俣渡で御家人たちと先陣を争って闘乱を起こしたことが頼朝の耳に達したため。範頼は義経と違って何事も頼朝の意向を気にかけて飛脚を頻繁に鎌倉に遣わしたり、千葉常胤や和田義盛らに相談したりしていたという記事が後々になって出てきますが、ここで叱られたのがこたえたんじゃなかろうか。

4日、平氏が一ノ谷に城郭を構える。城郭といっても地形を利用した急ごしらえの館だったのでしょうけれども。5日、源氏両将(範頼・義経)摂津国に到着、7日を矢合わせと定めます。大手は範頼以下、小山朝政・千葉常胤・畠山重忠・梶原景時ら。搦手の大将は義経、こちらには土肥実平や三浦義連・熊谷直実らの名前が見えます。
吾妻鏡の簡単な記述では地勢が少々わかりにくいのですが、大手:生田の森方面は海岸沿いを進み、搦手は三草山を経て一ノ谷の背後の鵯越に到達。搦手のうち、熊谷直実と平山季重は一ノ谷を回り込んで海側に出て先陣名乗りをしています。この先陣の後、「蒲冠者並足利・秩父・三浦・鎌倉之輩等」大手勢が攻め入って混戦になる中、「猪鹿兎狐之外不通険阻」の鵯越(つまり源氏の大手勢を相手にしていた平氏の軍勢の背後)から搦手勢が奇襲。この合戦で、重衡は生け捕り。その他、通盛・忠度・知章・敦盛ら多数の平氏の公達が討死。13日には討ち取られた人々の首が都大路を渡されました。

生け捕りになった重衡から、西国へ落ちた宗盛に先帝と三種の神器を返還するようにという使いが送られるのですが、20日に宗盛から送られた返書が注目されます。

「去六日、修理権大夫送書状云、依可有和平之儀、来八日出京、為御使可下向奉勅答、不帰参之以前、不可有狼藉之由、被仰関東武士等畢、又以此旨早可令仰含官軍等者、相守此仰官軍等、本自無合戦志之上、不及存知、相待院使下向之処、同七日、関東武士等襲来・・・」

院の御使いが来て和平の相談をしたいから戦うなという書状を貰ったから、その仰せを守っていたところが関東武士が襲ってきた、これはどういうことか、このような次第では還御は無理。そういうことが綿々と綴られた書状です。これが事実であれば、一ノ谷の合戦における平氏の最大の敗因は義経の鵯越ではなく、院の和議提案でしょう。宗盛は、院宣が関東武士たちに徹底しなかったのか・関東武士が院宣を無視したのか・油断させるために奇謀を巡らされたのか、と院に恨み言を書き連ねています。おそらく3番目でしょうね、頼朝をして日本一の大天狗と言わしめた後白河法皇のことですから。

『愚管抄』では一ノ谷に関する記述は少ないのですが、「九郎ソノ一ノ谷ヨリ打イリテ、平家ノ家ノ子東大寺ヤク大将軍重衡イケドリニシテ、其外十人バカリソノ日打取テケリ」とあって、書いたのが天台座主なだけに東大寺を焼いた重衡が特に槍玉に挙がってます。
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by kyougen-kigyo | 2013-05-26 16:14 | 考察編

義仲最期

平家物語ならクライマックス、義経が大活躍して平氏が没落するのが寿永3年(4月に改元して元暦元年、西暦1184年)。物語的展開は平家物語その他に譲るとして、ここは吾妻鏡を読んでいきます。

寿永3年1月10日条に義仲が征夷大将軍となった記事が出ています。「希代朝恩」とありますが、要するに頼朝を優遇する朝廷に対して不満をぶつけて法皇を幽閉した義仲をなだめようという意図でしょう。20日には範頼と義経が頼朝の使者として「義仲追罰のため」数万騎を率いて入洛(また誇張があります、数万騎)。範頼・義経らは御家人たちを率いて仙洞御所を警護、義仲はその日のうちに粟津で討たれます。征夷大将軍であったのはわずかに10日間。平家物語などでは今井兼平の奮戦や巴御前の物語などがあって劇的な部分ですが、吾妻鏡では「一条次郎忠頼已下勇士競争于諸方、遂於近江国粟津辺令相模国住人石田次郎誅戮義仲」と至って簡潔に述べられています。『愚管抄』ではもう少し詳しく、「義仲ハワヅカニ四五騎ニテカケ出デタリケル。ヤガテ落テ勢多ノ手ニクハゝラント大津ノ方ヘヲチケルニ、九郎ヲヒカゝリテ大津ノ田中ニヲイハメテ、伊勢三郎ト云ケル郎等、打テケリトキコヘキ。(日本古典文学大系、岩波書店より)」 さらにこの時、平氏は対頼朝のため、義仲と手を組もうと西国から上洛の途中であったと書いてあります。敵の敵は味方、の典型例ですね。義仲を討った人物は、吾妻鏡と平家物語では石田次郎、愚管抄では伊勢三郎となっています。

27日には範頼・義経をはじめ御家人らの飛脚が鎌倉に到着、それぞれの報告が行われ、頼朝が詳細を聞いていたところ、少し遅れてきた梶原景時の飛脚だけが「討亡囚人等交名注文」を持参していて、他の者はそういう記録を持ってきていなかったので、景時の配慮に感心した、という話があります。ここでも株を上げている景時。嫌われ者ですが、私の目には良く気のまわる仕事のできる人、に見えるのですけれども・・・
1月29日、範頼・義経を大将として、平氏追討の勢が京から西国へ出陣。翌月がいよいよ一ノ谷の合戦となります。
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by kyougen-kigyo | 2013-05-19 23:17 | 考察編

寿永二年のこと(補)

寿永2年(1183)は歴史的には非常に重要な年ですが、吾妻鏡に寿永2年が抜け落ちているせいで、このまま読み進めると話が飛んでしまうので、間もあいたことだし、おさらい的に寿永2年の出来事をまとめておきます。

2月  頼朝の叔父・志田義広が関東で反頼朝の兵を挙げるも敗れ、義仲のもとに身を寄せる。これにより頼朝と義仲の関係悪化。
3月  頼朝、義仲の嫡子・清水冠者義高を娘婿にする名目で人質に取る。頼朝と義仲の休戦成立。
5月  義仲、北陸へ向かった平氏勢を倶利伽羅峠で破る。
7月  平氏都落ち。義仲、入京。
9月  義仲、平氏追討のため西国へ出陣。
10月 頼朝、「寿永二年の宣旨」により東海道・東山道の実質的支配権を得る。
11月 10月の宣旨に不満を持った義仲、法住寺合戦により後白河法皇を幽閉。

軍事的には木曽義仲の独壇場ですが、頼朝の政治的手腕も冴えています。義仲の快進撃を鎌倉で静観しつつ、押さえるところは押さえる。頼朝にしてみれば義仲も平氏も反頼朝という意味では同じこと、対抗勢力が喰い合って衰えるのを待っている感があります。結果、平氏は西国へ落ち、義仲は京で孤立して身動き取れず、頼朝は関東で勢力を温存している状況で寿永3年を迎えることになります。
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by kyougen-kigyo | 2013-05-12 22:24 | 考察編

まんだら堂やぐら群

ブログが鎌倉から逸脱してきてますが、ちゃんと鎌倉にも行ってます。今日は名越切通にある“まんだら堂やぐら群”を見学してきました。連休中で鎌倉駅は大混雑、でも緑ヶ丘入口行きバスは空席が目立つ。終点まで行ったのは私と、もう一組だけでした。駅周辺の混雑が嘘のような、この状態。
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切通の入口の空き地、以前はけもの道程度でしたが砂利を敷いて道ができていました。まんだら堂やぐら群は、鎌倉市ではなく逗子市の管轄(国指定史跡なので正確には国の管轄なのかもしれませんが)。ここ何年も発掘のため立入禁止で、特別公開中しか見られません。タイミングが合わず、実は入ったのは初めてです。やぐら群の入口で逗子市教育委員会の方?から、これまでの発掘状況などをまとめた資料をいただきました。

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by kyougen-kigyo | 2013-05-03 20:21 | 鎌倉歩き


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