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鎌倉幕府の文官たち

武家の都でも幕府が機能するためには文官の存在が必要です。
特に三善康信(善信)・康清兄弟は、頼朝の乳母の妹の子という関係で(現代から見るとややこしい関係ですが)、挙兵前から京都の情報を逐一(吾妻鏡によると10日に1度のペースで)流してくれています。朝廷の様子を伝えるだけではなく、頼朝の不利になりそうな動きがあるとすぐに密書を送り注意を促したりしているのです。例えば養和元年に源氏追討の宣旨が出された時。8月13日に宣旨が出て、16日に頼朝追討軍が京を立ちますが、26日には三善康信からの飛脚で官軍が東方を指して出陣した旨が鎌倉に伝えられています。

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by kyougen-kigyo | 2013-02-24 13:31 | 考察編

元号のこと

1181年、治承5年が7月に養和元年に改元した前後の記事を読んでいて気付くのは、『吾妻鏡』の項目立て自体は「養和」を使っているのに、その中に引用されている古文書(吾妻鏡が編纂された時期から見れば幕府草創期は100年以上昔ですから古文書と言ってよいでしょう)には8月以降も「治承五年」が使われていること。ためしに鎌倉遺文なども見てみると、治承は7年まで使われています。中央との連絡が少なかった地方ならば改元のニュースの伝達が遅くて元号がずれることがありますが、鎌倉では京都との連絡を保っていたのですから改元に気付かなかったということはあり得ません。すると、故意に治承を使っていたことになります。治承→養和、養和→寿永の改元は安徳天皇のもとで行われたもの、つまりは平氏が行ったもの。反平氏の立場上、養和・寿永の元号を拒否し、高倉天皇のもとで決められた「治承」を正統として使い続けたのです。

暦というのは今でこそ普通の生活に溶け込んでいますが、暦を受け入れるかどうか、というのは支配にかかわる問題であり、古代から洋の東西を問わず支配階級は暦を作り、管理することに腐心してきたわけです。暦の区切りである元号を受け入れるかどうか=その元号を決めた勢力の支配を受け入れるかどうか。ということであり、源氏としては平氏の元号は受け入れられなかった。南北朝時代を考えればわかりやすく、南朝元号と北朝元号が並立してその勢力域ごと、支持者ごとにそれぞれの元号を使っています。さらには地域限定で朝廷とは関係なく勝手に作ってしまった「私年号」というのもありますし。最近の例ではキリスト紀元を拒否して皇紀を使った戦時中の日本が、こういう意識に近いと言えそうです。元号の使い方ひとつにもその人のイデオロギーが出てくるのは今も同じでしょうか。
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by kyougen-kigyo | 2013-02-15 22:38 | 考察編

吾妻鏡、考察編~養和元年後半

鶴岡八幡宮の新築が成った同じ頃(治承5年が7月に改元して養和元年8月)、奥州の藤原秀衡に対して頼朝追討の、越後の城四郎資職に対して木曽義仲追討の宣下がなされています。宣旨といっても数え年4歳の安徳天皇ですから、当然のことながら天皇から発されたものではなく平氏が出したもの。この〈勅命〉で平氏方が動き、応戦に出た木曽義仲が圧勝して上洛へ、という流れになります。しかし頼朝は鶴岡八幡や鹿島神宮、伊勢神宮などに祈祷を依頼したりしながらまったく鎌倉から動かず、関東にいる平氏方の武士を討つことに専念しているようです。およそ1年前、富士川で勝って上洛しようとして止められた記憶がしっかり残っていて腹を据えた感じです。9月には平氏方の下野国足利太郎俊綱追討のために和田義茂、三浦義連、葛西清重らが出陣します。ちなみに足利俊綱の息子は頼政挙兵の時に平氏について宇治川を先陣で渡った又太郎忠綱、武勇談が平家物語に出てきます。隣の領地の新田氏と仲が悪くて平氏方になった、関東では有力な反頼朝勢力。ところが、義茂ら追討軍が到着する前に俊綱は家臣の桐生六郎に討たれてしまい、俊綱を討った六郎はその賞として御家人にしてほしいと言ってきますが、譜代の主人を討ったことは不当である、と即刻却下、首をはねられ俊綱の首の隣に晒されました。吾妻鏡では桐生六郎は「俊綱専一者」と表現されていて、俊綱の側近だったと思われます。当時「返り忠」は珍しいことではありませんが、このように譜代の家臣が主人を討つ行為は批判の対象であり、さらに頼朝が六郎に対して厳しく処置しているのは、同じように身内に討たれた父を思ったからかもしれません。

桐生六郎が俊綱の首を持参した経路ですが、まず武蔵大路から、梶原平三景時のもとへ使者を立て、景時を通じて頼朝に報告。頼朝は深沢から腰越へ向かうように指示。おそらく腰越で首実験の上、晒されたと思われます。武蔵大路は現在、正確な場所が分からなくなっている道の一つですが、深沢は湘南モノレールに「湘南深沢」の駅名があります。藤沢市に近い方で、近辺には「梶原」の地名も残っており、梶原景時を通したという記述とも合致します。ここから鎌倉の中には入らせず海辺の腰越へ向かわせる、つまり深沢─腰越ラインが鎌倉の西側の境界線だったと考えられます。後に義経も腰越で止められていますね。

桐生六郎と頼朝の間の仲介の労を取った梶原景時ですが、特に六郎と関係があったわけではなさそうで、御家人になりたいという六郎の願いを頼朝に伝えたのも景時なら、頼朝の命を受けて六郎の首を晒したのも景時。事務的に話を通した、だけのようです。これに限らず梶原景時、かなり事務官僚的な印象を受けます。義経を讒言したというので嫌われ役にされがちですが、個人的には興味のある人物なので、いずれ詳細に書こうとは思っています。前にも書きましたが私は判官びいきはしませんので…
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by kyougen-kigyo | 2013-02-11 14:21 | 考察編

鎌倉の山歩き

鎌倉と、日本刀と、もう一つの趣味が山歩き。鎌倉行きたい、山も行きたい、で鎌倉の山を歩いてきました。

選んだコースは「番場ヶ谷」。十二所神社の横の吉沢川を遡行する沢沿いの道で、最終的には天園ハイキングコースの尾根に出ます。マイナールートでプチ沢歩きの要素もあるため「秘境」とも言われますが、メジャーなハイキングコースに飽きてしまった人がそこそこ訪れているようです。実はこのコースに足を踏み入れるのは初めて。事前に集めた情報で街用のスニーカーではだめだろうと思ってローカットの軽登山靴装備で行きました。
まずは十二所神社バス停まで、バスで行ってしまいます。せっかくなので朝比奈切通しを熊野神社まで往復。この切通し、昔と比べるとずいぶんきれいに整備された感があります。落石も片づけられてますし。

番場ヶ谷についてはいろんな人がブログで紹介していますが、一応簡単に道を書いておくと、バス停近くの料理屋「峰本」の横の川沿いの道に入り、石橋を渡って住宅地の中をどんどん進みます。最後の人家の先のフェンス横から「ここ入っていいの?」という感じの笹藪の小道に入っていくのが番場ヶ谷への入り口。夏はすごい藪になると見ました。
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少し歩くと一枚岩、沢歩きっぽくていい感じです。
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by kyougen-kigyo | 2013-02-03 21:47 | 鎌倉歩き


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