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吾妻鏡、考察編~治承5年の正月~

「吾妻鏡を歩く」というより「吾妻鏡を考察する」のブログになってますが…

大倉御所へ引っ越した翌月、頼朝は鎌倉に来て初の正月を迎えます。
元日には三浦義澄・畠山重忠・大庭景義らが警護する中を鶴岡八幡宮へ初詣。吾妻鏡には「不及日次沙汰。以朔旦被定当宮奉幣之日」とあります。日の吉凶に関わりなく、元旦を鶴岡に奉幣する日と決めた、とのこと。やはり武家の方が公家より日の吉凶に対する意識が薄い?

鶴岡社頭では、神馬1匹を宇佐美祐茂と新田(仁田)忠常が宝前に引いて奉納、次いで法華経供養を聴聞。いつも頼朝の近くにいる千葉常胤の名前が見えないなぁ…と読んでいたら、「事終還御之後、千葉介常胤献椀飯」とありました。大倉御所に残って新年会の手配といったところでしょうか。鎌倉入りして初の正月ですから、千葉さんも張り切ったのでしょう、三尺もある大きな鯉と、たくさんの料理や酒が用意されました。
酒肴のことは「上林下若」という言葉で記されています(国史大系は「下客」になっていますが古写本の段階での誤字)。「上林」が肴、「下若」が酒。いずれも中国の故事に基づく単語で、上林は秦の始皇帝が作らせた上林苑という庭園のこと。この庭園に禽獣を集めて狩猟を楽しんだり、果樹を植えたりしたところから美食を指すようになったようです。下若は地名で酒の産地。中世日本の文章にはこういう中国故事に由来する語が多用されるので、日本の古典を読んでいれば自然と中国故事にも詳しくなります。それでいて中世日本の漢文って、文法無視して当て字だらけ・仮名交じりの和製漢文なんですよね…「難しく」が「六ヶ敷」だったり。これに慣れてしまうと正規の漢文が読みづらくなってしまいます。それはさておき。

三尺の鯉がどう料理されたのかは不明ですが、「包丁式」的なものはあったと思われるので、長い菜箸と刀のような包丁を使った切り分けなどが御前で行われたのかも知れません。中世の鯉料理としては、膾が前回紹介した「厨事類記」に出てきますし、汁物も可能性は高そうです。幕府が安定するにつれて形式的な行事がやたらと増えていきますが、草創期の質朴な正月風景です。

ところで今年の大河ドラマは最後までマニア受けで終わりましたね。西行と銀の猫の話なんて、わかる人にしかわからないでしょうに。世間一般では酷評されているようですが個人的には時代考証が滅茶苦茶なのよりずっと良かったと思います、なにしろ近年の大河は時代考証にケチ付けることしか楽しみを見出せずにほとんど見てなかった私が挫折せずに最後まで見たんですから。1回、馬をサラブレッドじゃなくて日本在来種の馬でやってみて欲しい。…って、無理だろうな。

今年の更新はこれで終わりだと思います。皆様、良いお年を。
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by kyougen-kigyo | 2012-12-28 10:10 | 考察編

椀飯のこと

椀飯(オウバン)の話が出たので、ちょっと詳しく書いてみたいと思います。

椀飯とは、狭義にはハレの日に出される、高坏に盛り上げるようにした飯です(絵巻物など見ていると時々出てくる)が、その高盛りの飯を含む食膳全体、さらには酒宴を指すようにもなります。ここは中世の用法で多い広義の椀飯、酒宴を対象にします。
吾妻鏡には、前回書いた「三浦介義澄献椀飯」のように御家人が鎌倉殿(と随従する他の御家人たち)に酒肴を用意して饗応する椀飯が頻繁に出てきます。同じ席で食事をすることで連帯感を強め上下関係を確認する意味が強く、椀飯は武家社会において重要な儀式でした。この場合の「上下関係」には、「鎌倉殿と御家人」という関係の他に、「御家人同士の格付け」も含まれる、と考えてよいでしょう。主君の御前ですから、ここで確定した席次は公式の格付けでもあるわけです。
鎌倉幕府初期の椀飯はそれほど大げさではないのですが、体制が固まるにつれて、何日も続く儀礼の時には4人も5人もの御家人が持ち回りで椀飯を振る舞うようになり、その結果、吾妻鏡の正月の記事には毎日「○○献椀飯」の文字が並ぶことになります。当番の御家人の間で椀飯の内容の見事さを競うことにもなったでしょう。

では椀飯の中身は、という話になると、中世以前の食を伝える史料は多くはなく、具体的にどういう料理が並んだかは同時代には当たり前すぎる話なのであまり書かれていません。吾妻鏡には、例えば
  治承五年六月十九日 義澄搆盃酒椀飯殊尽美
  文治四年三月二十一日 梶原平三於御所経営頗尽美献盃酒椀飯
  建久二年十二月一日 北條殿被献盃酒椀飯
「盃酒椀飯」とセットで出てくることが多い、すなわち酒は必ず付いていたわけです。ご飯と、酒。となれば肴が欲しいところです。鎌倉時代の酒の肴って、何だろう?

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by kyougen-kigyo | 2012-12-20 20:28 | 考察編

吾妻鏡持って、鎌倉に行く。(二)~御所、竣工~

11月撮影分の続きですが・・・
治承4年11月17日に鎌倉に帰還した頼朝は、12月12日に「新造御亭」へ引越します。鶴岡八幡宮の東に建てられ、大倉御所と呼ばれるようになる所です。今でも「西御門」の地名が残っていますが、住宅地や学校の敷地なので、本格的な発掘はされていないようです。
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御所の裏手、法華堂の跡地から見下ろした所。木立に隠れて見えませんが、この辺一帯が大倉御所だったはず。

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御所の敷地にあたる小学校の脇には石碑もあります。鎌倉には大正~昭和初期に建てられたこの手の石碑が散見されますが、史実を検証せずに建てたものが多いようなので、鵜呑みにしてはいけません。大倉御所跡石碑は・・・「嘉禄元年政子薨ジ幕府ノ宇都宮辻ニ遷レルマデ此ノ地ガ幕府ノ中心タリシコト實ニ四十六年間ナリ」とありますが、承久元年(1219)に火事で焼失しているということと、幕府の移転先は「宇都宮辻」ではなく「宇都宮辻子」であるということが突っ込みどころ。辻(ツジ)と辻子(ヅシ)、似て非なるものです。しかし、この石碑自体にも歴史を感じますね。「今ヲ距タル七百三十七年ノ昔」って、治承4年は今からだと832年の昔なんですから・・・

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by kyougen-kigyo | 2012-12-14 20:44 | 鎌倉歩き

吾妻鏡、考察編~「武家の棟梁」とは~

リンク集など挟んだので間が空きましたが、吾妻鏡の話を続けます。
治承4年(1180)10月16日に駿河へ向けて出陣した頼朝が鎌倉に帰ってくるのは1ヶ月後で、その間、吾妻鏡に鎌倉は出てきません。しかし、いくつか重要な出来事が起きているので覚え書きしておきます。

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by kyougen-kigyo | 2012-12-07 22:37 | 考察編

日本刀文化振興協会の公開鑑賞会に参加

鎌倉の話ではありませんけれども・・・

先日、江戸東京博物館学習室で行われた公益財団法人日本刀文化振興協会の公開鑑賞会に参加してきました。今回は刀装具が20点、拵えが5点、面頬と額鉄が4点、刀剣が7口、それに加えて初心者コーナーに和泉守兼定(ノサダ)と古波平という全然違うタイプの2口が並んでいたのが面白いな、と思いました。

刀装具と甲冑・拵えは〈お手を触れないでください〉ですが、開始後しばらくすると係りの方が裏返してくださるので、裏側もじっくり拝見できます。美術館の展示には出てこない実戦レベルのものも間近に見ることができるし、刀は手にとって拝見することができるので、とても勉強になります。こういう鑑賞方法を覚えてしまうと、ガラスケース越しはもどかしくてしょうがない。
鎌倉時代から現代まで、まんべんなく出品されていたので時代による姿の違いもよくわかります。現代刀で出ていたのが大野義光刀匠の山鳥毛写しの太刀(長さ79.4センチ、反り3.3センチ)。豪壮で重ねが厚くて、すごく重い。と思ったら、本歌の上杉家伝来・号〈山鳥毛〉はもっと厚くて重いのだそうです。すごいなぁ。

今は現代刀の大ファンですが、古刀では案外、末備前が好きだったりします。来国行の太刀に一目惚れして以来の日本刀好きなので、以前は鎌倉時代のばかり見ていましたが、自分の手で持って鑑賞したりするようになったら末備前も面白いな、と思うようになって。離れて見るのと持つのとでは、印象が違うものです。鎌倉期の太刀がちょっと遠い存在なのに対して、末備前は何というか、親しみやすい。私は小柄なのでサイズ的な問題もあるのかもしれませんが。
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by kyougen-kigyo | 2012-12-03 21:12 | 日本刀


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