カテゴリ:考察編( 55 )

吾妻鏡、考察編~鶴岡造営と浅草の大工~

先月末で途切れていた吾妻鏡の続きです。

治承5年=養和元年(1181)前半は、西国での合戦や平清盛死去の大ニュースがあるものの、関東に関する記述は比較的穏やかです。頼朝の叔父・志田義広の反乱がこの年に出てきますが、編纂ミスで2年後だったという説が有力。また、養和元年は方丈記にも記された大飢饉があった年ですが、吾妻鏡に飢饉の記事は見当たりません。
この年、頼朝は鶴岡八幡宮寺の本格的な造営を企画します。「当宮。去年仮雖有建立之号。楚忽之間。先所被用松柱萱軒。」とあるので、先に建てたのは急造の萱葺きの建物だったようです(ちなみに、養和元年の造営でも社殿は階段の上ではなく若宮の位置)。6月27日には材木の一部が由比浦に到着。7月3日、武蔵国浅草から大工を呼び寄せ、8日に大工が到着、20日に上棟式があり、大工は頼朝から馬を賜っています。8月15日に遷宮があって造営完了。(もちろん日付は旧暦です)

注目点は〈武蔵国浅草の大工〉。現在の台東区浅草が登場です。「於鎌倉中、無可然之工匠。仍可召進武蔵国浅草大工字郷司之旨…」とあります。すなわち鎌倉にはいなかった〈然るべき工匠〉が、それも大規模な神社仏閣の造営も任せることができる宮大工の棟梁が、浅草にはいたことになります。では、鎌倉時代の浅草はどんな場所だったのでしょう。

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by kyougen-kigyo | 2013-01-20 22:30 | 考察編

吾妻鏡、考察編~治承5年の正月~

「吾妻鏡を歩く」というより「吾妻鏡を考察する」のブログになってますが…

大倉御所へ引っ越した翌月、頼朝は鎌倉に来て初の正月を迎えます。
元日には三浦義澄・畠山重忠・大庭景義らが警護する中を鶴岡八幡宮へ初詣。吾妻鏡には「不及日次沙汰。以朔旦被定当宮奉幣之日」とあります。日の吉凶に関わりなく、元旦を鶴岡に奉幣する日と決めた、とのこと。やはり武家の方が公家より日の吉凶に対する意識が薄い?

鶴岡社頭では、神馬1匹を宇佐美祐茂と新田(仁田)忠常が宝前に引いて奉納、次いで法華経供養を聴聞。いつも頼朝の近くにいる千葉常胤の名前が見えないなぁ…と読んでいたら、「事終還御之後、千葉介常胤献椀飯」とありました。大倉御所に残って新年会の手配といったところでしょうか。鎌倉入りして初の正月ですから、千葉さんも張り切ったのでしょう、三尺もある大きな鯉と、たくさんの料理や酒が用意されました。
酒肴のことは「上林下若」という言葉で記されています(国史大系は「下客」になっていますが古写本の段階での誤字)。「上林」が肴、「下若」が酒。いずれも中国の故事に基づく単語で、上林は秦の始皇帝が作らせた上林苑という庭園のこと。この庭園に禽獣を集めて狩猟を楽しんだり、果樹を植えたりしたところから美食を指すようになったようです。下若は地名で酒の産地。中世日本の文章にはこういう中国故事に由来する語が多用されるので、日本の古典を読んでいれば自然と中国故事にも詳しくなります。それでいて中世日本の漢文って、文法無視して当て字だらけ・仮名交じりの和製漢文なんですよね…「難しく」が「六ヶ敷」だったり。これに慣れてしまうと正規の漢文が読みづらくなってしまいます。それはさておき。

三尺の鯉がどう料理されたのかは不明ですが、「包丁式」的なものはあったと思われるので、長い菜箸と刀のような包丁を使った切り分けなどが御前で行われたのかも知れません。中世の鯉料理としては、膾が前回紹介した「厨事類記」に出てきますし、汁物も可能性は高そうです。幕府が安定するにつれて形式的な行事がやたらと増えていきますが、草創期の質朴な正月風景です。

ところで今年の大河ドラマは最後までマニア受けで終わりましたね。西行と銀の猫の話なんて、わかる人にしかわからないでしょうに。世間一般では酷評されているようですが個人的には時代考証が滅茶苦茶なのよりずっと良かったと思います、なにしろ近年の大河は時代考証にケチ付けることしか楽しみを見出せずにほとんど見てなかった私が挫折せずに最後まで見たんですから。1回、馬をサラブレッドじゃなくて日本在来種の馬でやってみて欲しい。…って、無理だろうな。

今年の更新はこれで終わりだと思います。皆様、良いお年を。
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by kyougen-kigyo | 2012-12-28 10:10 | 考察編

椀飯のこと

椀飯(オウバン)の話が出たので、ちょっと詳しく書いてみたいと思います。

椀飯とは、狭義にはハレの日に出される、高坏に盛り上げるようにした飯です(絵巻物など見ていると時々出てくる)が、その高盛りの飯を含む食膳全体、さらには酒宴を指すようにもなります。ここは中世の用法で多い広義の椀飯、酒宴を対象にします。
吾妻鏡には、前回書いた「三浦介義澄献椀飯」のように御家人が鎌倉殿(と随従する他の御家人たち)に酒肴を用意して饗応する椀飯が頻繁に出てきます。同じ席で食事をすることで連帯感を強め上下関係を確認する意味が強く、椀飯は武家社会において重要な儀式でした。この場合の「上下関係」には、「鎌倉殿と御家人」という関係の他に、「御家人同士の格付け」も含まれる、と考えてよいでしょう。主君の御前ですから、ここで確定した席次は公式の格付けでもあるわけです。
鎌倉幕府初期の椀飯はそれほど大げさではないのですが、体制が固まるにつれて、何日も続く儀礼の時には4人も5人もの御家人が持ち回りで椀飯を振る舞うようになり、その結果、吾妻鏡の正月の記事には毎日「○○献椀飯」の文字が並ぶことになります。当番の御家人の間で椀飯の内容の見事さを競うことにもなったでしょう。

では椀飯の中身は、という話になると、中世以前の食を伝える史料は多くはなく、具体的にどういう料理が並んだかは同時代には当たり前すぎる話なのであまり書かれていません。吾妻鏡には、例えば
  治承五年六月十九日 義澄搆盃酒椀飯殊尽美
  文治四年三月二十一日 梶原平三於御所経営頗尽美献盃酒椀飯
  建久二年十二月一日 北條殿被献盃酒椀飯
「盃酒椀飯」とセットで出てくることが多い、すなわち酒は必ず付いていたわけです。ご飯と、酒。となれば肴が欲しいところです。鎌倉時代の酒の肴って、何だろう?

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by kyougen-kigyo | 2012-12-20 20:28 | 考察編

吾妻鏡、考察編~「武家の棟梁」とは~

リンク集など挟んだので間が空きましたが、吾妻鏡の話を続けます。
治承4年(1180)10月16日に駿河へ向けて出陣した頼朝が鎌倉に帰ってくるのは1ヶ月後で、その間、吾妻鏡に鎌倉は出てきません。しかし、いくつか重要な出来事が起きているので覚え書きしておきます。

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by kyougen-kigyo | 2012-12-07 22:37 | 考察編

吾妻鏡、考察編 ~関東陰陽師のこと~

治承4年に頼朝の仮御所になった中古物件(11月21日のブログ参照、正確には知家事兼道の屋敷と書いてあるがこの人物の詳細は不明)には、正暦年間(990~994年)に建立してから回禄の災い(=火事)に遭ったことがない、(安倍)晴明朝臣が鎮宅之符を押したからである、という面白い話が付随しています。

確かに正暦年間ならば安倍晴明は生きてます、推定70歳前後。しかし、もちろん鎌倉には来てませんし、京都にあった家をわざわざ鎌倉まで運んだわけでもないでしょう。では、何故そういう伝説が出てきたか。安倍晴明って鎌倉時代にも有名な人だったんだねー、という他にも背景があります。

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by kyougen-kigyo | 2012-11-29 20:52 | 考察編


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