カテゴリ:考察編( 55 )

一ノ谷

寿永3年2月。
1日、義仲追討の一方の大将だった範頼が頼朝に怒られています。これは上洛の時、墨俣渡で御家人たちと先陣を争って闘乱を起こしたことが頼朝の耳に達したため。範頼は義経と違って何事も頼朝の意向を気にかけて飛脚を頻繁に鎌倉に遣わしたり、千葉常胤や和田義盛らに相談したりしていたという記事が後々になって出てきますが、ここで叱られたのがこたえたんじゃなかろうか。

4日、平氏が一ノ谷に城郭を構える。城郭といっても地形を利用した急ごしらえの館だったのでしょうけれども。5日、源氏両将(範頼・義経)摂津国に到着、7日を矢合わせと定めます。大手は範頼以下、小山朝政・千葉常胤・畠山重忠・梶原景時ら。搦手の大将は義経、こちらには土肥実平や三浦義連・熊谷直実らの名前が見えます。
吾妻鏡の簡単な記述では地勢が少々わかりにくいのですが、大手:生田の森方面は海岸沿いを進み、搦手は三草山を経て一ノ谷の背後の鵯越に到達。搦手のうち、熊谷直実と平山季重は一ノ谷を回り込んで海側に出て先陣名乗りをしています。この先陣の後、「蒲冠者並足利・秩父・三浦・鎌倉之輩等」大手勢が攻め入って混戦になる中、「猪鹿兎狐之外不通険阻」の鵯越(つまり源氏の大手勢を相手にしていた平氏の軍勢の背後)から搦手勢が奇襲。この合戦で、重衡は生け捕り。その他、通盛・忠度・知章・敦盛ら多数の平氏の公達が討死。13日には討ち取られた人々の首が都大路を渡されました。

生け捕りになった重衡から、西国へ落ちた宗盛に先帝と三種の神器を返還するようにという使いが送られるのですが、20日に宗盛から送られた返書が注目されます。

「去六日、修理権大夫送書状云、依可有和平之儀、来八日出京、為御使可下向奉勅答、不帰参之以前、不可有狼藉之由、被仰関東武士等畢、又以此旨早可令仰含官軍等者、相守此仰官軍等、本自無合戦志之上、不及存知、相待院使下向之処、同七日、関東武士等襲来・・・」

院の御使いが来て和平の相談をしたいから戦うなという書状を貰ったから、その仰せを守っていたところが関東武士が襲ってきた、これはどういうことか、このような次第では還御は無理。そういうことが綿々と綴られた書状です。これが事実であれば、一ノ谷の合戦における平氏の最大の敗因は義経の鵯越ではなく、院の和議提案でしょう。宗盛は、院宣が関東武士たちに徹底しなかったのか・関東武士が院宣を無視したのか・油断させるために奇謀を巡らされたのか、と院に恨み言を書き連ねています。おそらく3番目でしょうね、頼朝をして日本一の大天狗と言わしめた後白河法皇のことですから。

『愚管抄』では一ノ谷に関する記述は少ないのですが、「九郎ソノ一ノ谷ヨリ打イリテ、平家ノ家ノ子東大寺ヤク大将軍重衡イケドリニシテ、其外十人バカリソノ日打取テケリ」とあって、書いたのが天台座主なだけに東大寺を焼いた重衡が特に槍玉に挙がってます。
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by kyougen-kigyo | 2013-05-26 16:14 | 考察編

義仲最期

平家物語ならクライマックス、義経が大活躍して平氏が没落するのが寿永3年(4月に改元して元暦元年、西暦1184年)。物語的展開は平家物語その他に譲るとして、ここは吾妻鏡を読んでいきます。

寿永3年1月10日条に義仲が征夷大将軍となった記事が出ています。「希代朝恩」とありますが、要するに頼朝を優遇する朝廷に対して不満をぶつけて法皇を幽閉した義仲をなだめようという意図でしょう。20日には範頼と義経が頼朝の使者として「義仲追罰のため」数万騎を率いて入洛(また誇張があります、数万騎)。範頼・義経らは御家人たちを率いて仙洞御所を警護、義仲はその日のうちに粟津で討たれます。征夷大将軍であったのはわずかに10日間。平家物語などでは今井兼平の奮戦や巴御前の物語などがあって劇的な部分ですが、吾妻鏡では「一条次郎忠頼已下勇士競争于諸方、遂於近江国粟津辺令相模国住人石田次郎誅戮義仲」と至って簡潔に述べられています。『愚管抄』ではもう少し詳しく、「義仲ハワヅカニ四五騎ニテカケ出デタリケル。ヤガテ落テ勢多ノ手ニクハゝラント大津ノ方ヘヲチケルニ、九郎ヲヒカゝリテ大津ノ田中ニヲイハメテ、伊勢三郎ト云ケル郎等、打テケリトキコヘキ。(日本古典文学大系、岩波書店より)」 さらにこの時、平氏は対頼朝のため、義仲と手を組もうと西国から上洛の途中であったと書いてあります。敵の敵は味方、の典型例ですね。義仲を討った人物は、吾妻鏡と平家物語では石田次郎、愚管抄では伊勢三郎となっています。

27日には範頼・義経をはじめ御家人らの飛脚が鎌倉に到着、それぞれの報告が行われ、頼朝が詳細を聞いていたところ、少し遅れてきた梶原景時の飛脚だけが「討亡囚人等交名注文」を持参していて、他の者はそういう記録を持ってきていなかったので、景時の配慮に感心した、という話があります。ここでも株を上げている景時。嫌われ者ですが、私の目には良く気のまわる仕事のできる人、に見えるのですけれども・・・
1月29日、範頼・義経を大将として、平氏追討の勢が京から西国へ出陣。翌月がいよいよ一ノ谷の合戦となります。
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by kyougen-kigyo | 2013-05-19 23:17 | 考察編

寿永二年のこと(補)

寿永2年(1183)は歴史的には非常に重要な年ですが、吾妻鏡に寿永2年が抜け落ちているせいで、このまま読み進めると話が飛んでしまうので、間もあいたことだし、おさらい的に寿永2年の出来事をまとめておきます。

2月  頼朝の叔父・志田義広が関東で反頼朝の兵を挙げるも敗れ、義仲のもとに身を寄せる。これにより頼朝と義仲の関係悪化。
3月  頼朝、義仲の嫡子・清水冠者義高を娘婿にする名目で人質に取る。頼朝と義仲の休戦成立。
5月  義仲、北陸へ向かった平氏勢を倶利伽羅峠で破る。
7月  平氏都落ち。義仲、入京。
9月  義仲、平氏追討のため西国へ出陣。
10月 頼朝、「寿永二年の宣旨」により東海道・東山道の実質的支配権を得る。
11月 10月の宣旨に不満を持った義仲、法住寺合戦により後白河法皇を幽閉。

軍事的には木曽義仲の独壇場ですが、頼朝の政治的手腕も冴えています。義仲の快進撃を鎌倉で静観しつつ、押さえるところは押さえる。頼朝にしてみれば義仲も平氏も反頼朝という意味では同じこと、対抗勢力が喰い合って衰えるのを待っている感があります。結果、平氏は西国へ落ち、義仲は京で孤立して身動き取れず、頼朝は関東で勢力を温存している状況で寿永3年を迎えることになります。
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by kyougen-kigyo | 2013-05-12 22:24 | 考察編

上総介広常のこと

寿永2年に唐突に殺されてしまった上総広常。吾妻鏡に広常の名が出てくるのは治承4年(1180)8月24日です。石橋山の合戦に参加しようとしていた三浦一族が、頼朝が敗れたという報を聞いて三浦に戻る途中で、広常の弟・金田小大夫頼次が七千余騎を率いて合流しています。吾妻鏡は数字に信憑性がないので、七千余騎も誇張だと思いますが。

本人が登場するのはそれから10日ほど後の9月上旬。安房に逃れた頼朝が、広常の居所を訪れようと言って3日に出発、しかし途中、長狭六郎常伴という者が襲ってきます。名前からして長狭郡の辺りの住人だったのでしょう。これは三浦義澄が撃退して、4日、安房国住人安西景益が「長狭六郎みたいのもいるから、広常の所には使いをやって迎えにこさせましょう」と提案。頼朝はこの言を入れて側近の和田義盛を上総広常の元へ、安達盛長を千葉常胤の元へ遣わしました。

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by kyougen-kigyo | 2013-04-17 20:00 | 考察編

寿永二年のこと

亀の前騒動で年が暮れた寿永元年までが吾妻鏡の第2巻。さて、第3巻の正月の記事を読み始めると、 「一日辛卯霽 鶴岡八幡宮有御神楽、前武衛無御参宮。去冬、依広常事営中穢気之故也」。年末に何かあったっけ? と思ってよく見ると、寿永2年(1182)がすっぽり抜け落ちて寿永3年に飛んでいるのです。これは編纂ミスではなく故意に寿永2年分を抜いてあるのだと言われています。寿永2年は頼朝の叔父である志田義広の乱が起きたり、木曽義仲が上洛を果たして平家が都落ちしたり、その義仲は反頼朝であったりと大きな出来事が続いて、幕府の公式記録に載せては都合が悪いことも多かったのではないか─ということです。
そんな寿永2年の12月に、関東の一大勢力だった上総広常が頼朝の命によって殺される事件がありました。それが吾妻鏡のいう「広常の事」。上総介広常、頼朝とすれば第一印象からして悪かったんでしょうね・・・勢力が大きいから功績も大きい。その分、態度も大きくて他の御家人たちといざこざを起こしたりもしています。広常を殺す役目を命じられたのが梶原景時、首尾よく討ち取っています。しかし寿永3年正月、上総国一宮に広常が奉納した鎧から「所奉祈武衛御運之願書」が見つかって「不存謀曲之條」が明らかになり、頼朝は後悔して囚人となっていた広常の縁者を許したと吾妻鏡には書いてあります。

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by kyougen-kigyo | 2013-04-06 21:00 | 考察編

吾妻鏡読解続けます

養和2年(=5月に寿永と改元。鎌倉側では治承6年を使用)3月に政子の着帯の儀がありましたが、6月、頼朝は亀の前という女性を中原小忠太光家の小坪の家に招きます。亀前は「良橋太郎入道息女」で、伊豆にいた時からの知り合いで「匪顔皃之濃。心操殊柔和也。」と吾妻鏡には紹介されています。当時は一夫一婦制ではありませんし、ことに源氏の棟梁ですから妻が5、6人いても当たり前の時代です。頼朝の父・義朝にも、わかっているだけで5人の妻がいました。気性の激しさが強調されがちな政子を思うと「心操殊柔和」な女性に惹かれた頼朝が微笑ましいのですが。頼家誕生と時期が重なっているし亀前事件に絡んで鎌倉殿と御家人たちの様子もうかがえるので少し詳しく見ていきましょう。

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by kyougen-kigyo | 2013-03-30 19:27 | 考察編

吾妻鏡、考察編~政子懐妊と祐親最期

養和元年8月16日に京都を発した頼朝追討軍のその後の動きは、なぜか吾妻鏡には出てきません。書くほどの所まで来なかったのでしょう。それとは別に10月3日、平維盛が東国へ向けて出陣したという記事があり(富士川のリベンジでしょうか?)、防禦のため11月5日に足利義兼・源義経らを向かわせようとしたところ、佐々木秀義が「維盛の軍は近江国で止まっていていつ下向するかわからない上に、源行家が尾張国に陣を張っているから慌てなくてもよい」と言上して出陣中止となっています。実際、維盛の軍勢は東国まで来ることはありませんでした。こう見てくると頼朝、結構いちいち出陣を止められてますね…ちゃんと周りの言うことを聞き入れて止まるのが頼朝の偉い所なんでしょう。

翌養和2年(=寿永元年、1182)は政子の懐妊・若君(後の頼家)誕生と頼朝の浮気騒動で埋まっている感があります。それ以外の養和2年の大きいニュースとしては、2月14日の伊東祐親の自害、が挙げられるでしょう。頼朝の伊豆流人時代に、頼朝と自分の娘の仲を認めずに子供を殺し、頼朝をも殺そうとした人物として有名ですが、治承4年に捕縛されて、娘婿にあたる三浦義澄が身柄を預かっていました(この辺り、ある程度の勢力がある武士団はほとんどすべて姻戚関係にありますから)。政子懐妊を機に義澄が恩赦を願い出て頼朝は許したのですが、それを義澄から聞いた途端に祐親は自害してしまいました。「禅門承今恩言。更恥前勘。忽以企自殺。」とありますが、自分の行為を恥じたというより、許されたことを恥じたのではないでしょうか。娘婿が誠心誠意、頼朝に仕えている姿や、自分の家よりずっと小さい土豪だった北条氏が頼朝と姻戚関係を結んだことによって地位を上げていく様子を2年間ずっと見ている。恩赦という一言に「負け」を実感したのではないかと思うのです。この後、頼朝は祐親の子の祐清を呼び出します。流人時代、祐親が頼朝を殺そうとしていることを祐清が告げたので、頼朝は走湯山に逃げることができた。祐親が自殺したことを悔いると共に、祐清の功を改めて賞したいということだったのですが、祐清は「父已亡。後栄似無其詮。早可給身暇。」と述べます。「身の暇」は死を給わりたいということ。結局、頼朝は不本意ながら祐清を誅殺。「世以莫不美談之」「有孝行之志如此」と吾妻鏡にはあります。こういう所に当時の武家の価値観というか倫理観が出てきますね。ともあれ、頼朝にとっては流人時代への一つの区切りになったのではないでしょうか。

3月9日、御台所(政子)の御着帯。民間でも多くは妊娠5ヶ月目に行われる帯祝です。千葉常胤の妻からという形で帯が献上され、頼朝が自身で結ぶ役をしています。3月15日、鶴岡社頭から由比浦に至るまで「直曲横而造詣往道」、これが段葛の原型といわれていますが、この時点では段葛という言葉は見えません。ちなみに現在の段葛は昭和に入ってから作られたもの。4月には鶴岡若宮辺りの弦巻田という水田三町余を池に改修したという記事もあります。当時、鶴岡八幡の周りは水田だったのですね。
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by kyougen-kigyo | 2013-03-03 11:42 | 考察編

鎌倉幕府の文官たち

武家の都でも幕府が機能するためには文官の存在が必要です。
特に三善康信(善信)・康清兄弟は、頼朝の乳母の妹の子という関係で(現代から見るとややこしい関係ですが)、挙兵前から京都の情報を逐一(吾妻鏡によると10日に1度のペースで)流してくれています。朝廷の様子を伝えるだけではなく、頼朝の不利になりそうな動きがあるとすぐに密書を送り注意を促したりしているのです。例えば養和元年に源氏追討の宣旨が出された時。8月13日に宣旨が出て、16日に頼朝追討軍が京を立ちますが、26日には三善康信からの飛脚で官軍が東方を指して出陣した旨が鎌倉に伝えられています。

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by kyougen-kigyo | 2013-02-24 13:31 | 考察編

元号のこと

1181年、治承5年が7月に養和元年に改元した前後の記事を読んでいて気付くのは、『吾妻鏡』の項目立て自体は「養和」を使っているのに、その中に引用されている古文書(吾妻鏡が編纂された時期から見れば幕府草創期は100年以上昔ですから古文書と言ってよいでしょう)には8月以降も「治承五年」が使われていること。ためしに鎌倉遺文なども見てみると、治承は7年まで使われています。中央との連絡が少なかった地方ならば改元のニュースの伝達が遅くて元号がずれることがありますが、鎌倉では京都との連絡を保っていたのですから改元に気付かなかったということはあり得ません。すると、故意に治承を使っていたことになります。治承→養和、養和→寿永の改元は安徳天皇のもとで行われたもの、つまりは平氏が行ったもの。反平氏の立場上、養和・寿永の元号を拒否し、高倉天皇のもとで決められた「治承」を正統として使い続けたのです。

暦というのは今でこそ普通の生活に溶け込んでいますが、暦を受け入れるかどうか、というのは支配にかかわる問題であり、古代から洋の東西を問わず支配階級は暦を作り、管理することに腐心してきたわけです。暦の区切りである元号を受け入れるかどうか=その元号を決めた勢力の支配を受け入れるかどうか。ということであり、源氏としては平氏の元号は受け入れられなかった。南北朝時代を考えればわかりやすく、南朝元号と北朝元号が並立してその勢力域ごと、支持者ごとにそれぞれの元号を使っています。さらには地域限定で朝廷とは関係なく勝手に作ってしまった「私年号」というのもありますし。最近の例ではキリスト紀元を拒否して皇紀を使った戦時中の日本が、こういう意識に近いと言えそうです。元号の使い方ひとつにもその人のイデオロギーが出てくるのは今も同じでしょうか。
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by kyougen-kigyo | 2013-02-15 22:38 | 考察編

吾妻鏡、考察編~養和元年後半

鶴岡八幡宮の新築が成った同じ頃(治承5年が7月に改元して養和元年8月)、奥州の藤原秀衡に対して頼朝追討の、越後の城四郎資職に対して木曽義仲追討の宣下がなされています。宣旨といっても数え年4歳の安徳天皇ですから、当然のことながら天皇から発されたものではなく平氏が出したもの。この〈勅命〉で平氏方が動き、応戦に出た木曽義仲が圧勝して上洛へ、という流れになります。しかし頼朝は鶴岡八幡や鹿島神宮、伊勢神宮などに祈祷を依頼したりしながらまったく鎌倉から動かず、関東にいる平氏方の武士を討つことに専念しているようです。およそ1年前、富士川で勝って上洛しようとして止められた記憶がしっかり残っていて腹を据えた感じです。9月には平氏方の下野国足利太郎俊綱追討のために和田義茂、三浦義連、葛西清重らが出陣します。ちなみに足利俊綱の息子は頼政挙兵の時に平氏について宇治川を先陣で渡った又太郎忠綱、武勇談が平家物語に出てきます。隣の領地の新田氏と仲が悪くて平氏方になった、関東では有力な反頼朝勢力。ところが、義茂ら追討軍が到着する前に俊綱は家臣の桐生六郎に討たれてしまい、俊綱を討った六郎はその賞として御家人にしてほしいと言ってきますが、譜代の主人を討ったことは不当である、と即刻却下、首をはねられ俊綱の首の隣に晒されました。吾妻鏡では桐生六郎は「俊綱専一者」と表現されていて、俊綱の側近だったと思われます。当時「返り忠」は珍しいことではありませんが、このように譜代の家臣が主人を討つ行為は批判の対象であり、さらに頼朝が六郎に対して厳しく処置しているのは、同じように身内に討たれた父を思ったからかもしれません。

桐生六郎が俊綱の首を持参した経路ですが、まず武蔵大路から、梶原平三景時のもとへ使者を立て、景時を通じて頼朝に報告。頼朝は深沢から腰越へ向かうように指示。おそらく腰越で首実験の上、晒されたと思われます。武蔵大路は現在、正確な場所が分からなくなっている道の一つですが、深沢は湘南モノレールに「湘南深沢」の駅名があります。藤沢市に近い方で、近辺には「梶原」の地名も残っており、梶原景時を通したという記述とも合致します。ここから鎌倉の中には入らせず海辺の腰越へ向かわせる、つまり深沢─腰越ラインが鎌倉の西側の境界線だったと考えられます。後に義経も腰越で止められていますね。

桐生六郎と頼朝の間の仲介の労を取った梶原景時ですが、特に六郎と関係があったわけではなさそうで、御家人になりたいという六郎の願いを頼朝に伝えたのも景時なら、頼朝の命を受けて六郎の首を晒したのも景時。事務的に話を通した、だけのようです。これに限らず梶原景時、かなり事務官僚的な印象を受けます。義経を讒言したというので嫌われ役にされがちですが、個人的には興味のある人物なので、いずれ詳細に書こうとは思っています。前にも書きましたが私は判官びいきはしませんので…
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by kyougen-kigyo | 2013-02-11 14:21 | 考察編


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