カテゴリ:考察編( 55 )

人物評② 源範頼・義経

※お詫びと訂正。前回、保元の乱と平治の乱を勘違いしておりました。ものすごく初歩的なミスをしてしまった…修正済みです。

さて、頼朝と対照的な性格なのが義経。吾妻鏡によれば義朝の六男で(実際は「九郎」だから九男)、平治の乱の時は生まれたばかり。幼名が牛若丸なのは言うまでもないですね。鞍馬寺に預けられ、その後奥州へ逃れて、治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると奥州から参陣。義仲と平氏の追討で大活躍するも、頼朝に嫌われて朝敵として追われる身に。逃避行の末、文治5年(1189)閏4月、奥州で討たれる。享年31歳(数え年)。
治承4年から元暦元年までの約4年間は鎌倉にいたはずですが、鎌倉でのエピソードは少ないので、彼がどういう立場だったかは不明です。吾妻鏡では、ちょっと我儘な一面が見えています(2013年1月20日のブログ参照)。義経の存在が顕著に出てくるのは元暦元年(1184)、義仲追討のために上洛してからですが、範頼と違って鎌倉に手紙を送ったりしていないので(これも頼朝の不興を買った一因のようですが)、人柄がつかみにくい。前回に倣って箇条書きしてみれば、
・戦術に長ける実戦向きの人
・政治的な大局は見えてなさそう
・貴族嗜好があったような印象を受ける(官位を欲する、平時忠の娘婿になる、など)
・人望は薄い
どちらかというと木曽義仲と似たタイプだったのではないでしょうか。

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by kyougen-kigyo | 2013-09-22 23:54 | 考察編

人物評① 源頼朝

とりあえず、鎌倉といえばまずはこの人。
久安3年(1147)に源義朝の三男として生まれる。12歳の時に平治の乱にあい、一度は義朝や兄と落ち延びるも、はぐれて捕虜に。死罪になりそうなところを清盛の継母である池禅尼のとりなしで伊豆配流となり(伊豆ってそれだけ僻地扱いだったんでしょうね)、その後24年間、伊豆に雌伏。治承4年、33歳の時に以仁王の令旨に応じて挙兵し、平氏を滅ぼし鎌倉幕府を創設する。建久10年(1199)正月、没。
簡単に言えばこういうプロフィールになります。最近の当ブログでは38歳の頃のことを書いています。

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by kyougen-kigyo | 2013-09-16 14:32 | 考察編

源平合戦後

文治元年(1185)3月、壇ノ浦にて平氏滅亡。4月11日、義経の使者が鎌倉に到着し、合戦の次第を報告。範頼は九州での事後処理に当たり、義経は生け捕りの者たちを連れて上洛するようにという指示が出る。4月14日、頼朝、院の褒詞を受ける。
これが壇ノ浦後の流れですが、後白河法皇から褒詞を受けた直後の4月15日、頼朝は関東の御家人が頼朝の推挙なしに勝手に朝廷の官職を貰っていることを名指しで厳しく叱責する(というよりほとんど罵倒する)文書を送っているのです。

  下 東国侍内任官輩中
   可令停止下向本国各在京勤仕陣直公役事
    副下交名注文一通

と題されたこの手紙には、東国には戻らず京都で勤めよ、墨俣(現・岐阜県大垣市墨俣町周辺)より東に下向することがあったら本領を召上げ斬罪とする、とまで書かれています。寿永二年十月の宣旨(1183)で東海道・東山道の実質支配権を得ていますから、墨俣より東は頼朝の縄張りという理解でしょう。頼朝の推挙を経て任官した場合は頼朝の恩を蒙ったことになりますが、勝手に任官した場合、それは頼朝から離れて朝廷の臣となったということを意味します。だからそういう連中に対して、朝廷の臣となった以上は朝廷で勤めよ、もう帰ってこなくていい! と言っているわけです(そこまで深く考えて任官した人はほとんどいないと思いますが)。一応、朝廷を上に戴く形を取りつつ独立した政権を目指す姿勢が表れています。
列挙されたのは24名。それぞれに、過去に義仲に味方していたことや平家方であったことを蒸しかえしたり、性格や見た目や声までけなしたりする内容(「目ハ鼠眼ニテ」とか「音様シワカレテ」とか…「顔ハフワフワトシテ」ってどんな顔だ?)。この書状、頼朝が自分で書いたものとしたら結構、毒舌家だったんではなかろうか、この人。24人の中には、奥州から義経に従っている佐藤忠信や、梶原一族(景時は入っていない)、八田知家や小山朝政といった有名どころまで入っています。もっとも、この人々は後にも普通に登場しているので、本当に罰されたりしたわけではないようです。リストの筆頭に来そうな義経の名前が無いのが意味深な。というより、暗に義経に対する警告とも感じられます。

そして4月21日、義経の独善を訴える景時の書状が鎮西から到着。これで景時の悪名が高くなってしまっているのですが、ここまでの義経の行状・性格を見ていると、さもありなん、という気もするのです。もちろん、吾妻鏡や平家物語は彼らの実像を描いたものとは限りません。多分に虚飾が入っている可能性があります。しかし、どうしても私には後世長く語られているような「冤罪で兄に追い詰められた悲劇の英雄」には見えないのです…そもそも勝手に官職に就いた時点で頼朝の怒りを買うことは必定だった。しかも頼朝が次に狙う奥州とも関わりが深い。吾妻鏡を信用すれば、養和2年(1182)にはすでに奥州討伐を決めていたのですから(2013/3/31のブログ参照)。景時の讒言が有っても無くても同じことだったでしょう。この辺の人物評もしてみたくなってきた。
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by kyougen-kigyo | 2013-09-08 19:47 | 考察編

平家追討使、四国編② ~壇ノ浦~

文治元年(1185)2月19日に屋島の合戦、さらに志度の合戦でも負けた平氏勢は九州方面へ逃れます。1ヶ月後の3月22日、義経は壇ノ浦を目指して出航。この間、何をしていたのかは吾妻鏡からは不明ですが、範頼から相変わらず兵糧がない、船がないと嘆く手紙が頼朝に送られて、関東から兵糧米を載せた船が出ていますから、範頼との連携のためにその到着を待っていたのか、四国内に残る平氏方の追討をしていたのか。この年、西国は飢饉だったようですから義経勢だって兵糧は不足していたはずだし。

3月21日、周防国の船奉行・船所五郎正利が兵船数十艘を提供。22日に義経が出航したことを聞きつけた三浦義澄、この人は範頼勢が豊後に出陣するときに防備のため説得されてしぶしぶ周防に残ったのですが(九州編参照)、大島津という所で義経勢に合流。大島津については『現代語訳吾妻鏡』の注では「周南市南部か」とあるので地図で見ると確かに周南市南部に大島という地名が見えます。大島のようないくらでもある地名は比定が難しい。義経は、義澄はすでに門司の関を見ているのだから、と案内役を命じ、壇ノ浦へ進軍。平氏勢も彦島から出てきます。
ところで、平家物語だと義経は「周防の地へ押渡り、兄参河守と一つになる」とありますが、吾妻鏡の壇ノ浦合戦には範頼に関する記述なし、実際はどうだったんだろうか、影の薄い人で…京や鎌倉への報告も義経から送られています。

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by kyougen-kigyo | 2013-08-24 22:30 | 考察編

吾妻鏡を歩く、大阪編 ~渡辺の津を探して~

大阪一泊旅行してきました。大阪って、乗り換えに使うばかりでちゃんと見たことがなかったんです、学生時代の学会帰りに四天王寺の「極楽の東門」の石鳥居を見た程度で、「大阪に行く」という目的で大阪に行ったことがない。今回の目的は大阪歴史博物館でした。

大阪歴博に行くついでに、前回のブログで出た摂津国渡辺の津を探してきました。『現代語訳吾妻鏡』の注では慎重に「大阪市北区・福島区・東区一帯」とあるのですが、それだとだいぶ広範囲になってしまいます(「東区」って見つからないのですが)。淀川下流域で、新淀川ではない旧河川の方で、埋め立てで海岸線が変わっているから…と地図を見ていてこの辺か?とあたりを付けた所にドンピシャ、「渡辺橋」。地図って楽しい。実際に出掛けていくと方向音痴なんですけどね…
大阪市立東洋陶磁美術館にも行きたかったので、中之島散策ということに。

参考地図→ http://goo.gl/maps/tK90y

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by kyougen-kigyo | 2013-08-15 19:29 | 考察編

平家追討使、四国編① ~屋島~

2月16日、関東の軍兵、讃岐国へ出発。義経が先陣として出航します。義経の滞在する旅館に来ていた大蔵卿・高階泰経が、「為大将軍者、未必競一陣歟、先可被遣次将哉者」─ 大将軍たるものは先陣を競うのではなく、まず次将を遣わすべきではないのか、と諫めたところ、義経は「殊有存念、於一陣欲棄命」─ 殊に存念あって先陣にて命を捨てようと思う、と答えています。

一方、平氏勢は、宗盛が讃岐屋島に、知盛が九州勢を率いて門司関を固め彦島を陣営と定める。宗盛は義経軍に、知盛は範頼軍に備えた形ですかね。

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by kyougen-kigyo | 2013-08-11 23:14 | 考察編

平家追討使、九州編

平家追討使は九州を範頼、四国を義経が担当していましたが、元暦2年(1185、8月に改元して文治元年)正月6日、範頼から兵糧がなくて御家人たちが逃げ帰りたがっているという書状が鎌倉に到来。頼朝は兵糧と船を送るとともに返書で筑紫の者たちを味方につけるよう(「国の者の心を破らぬ様なる事こそ吉事にてあらんずれ」)、安徳帝を無事お迎えするように(「八島に御座す大やけ幷二位殿女房たちなど少もあやまちあしざまなる事なくて向へ取申させ給へ」)、といったことを伝えています。安徳帝の身については重ね重ね心配している様子。そして範頼に従って九州へ行っている人々のうち、特に千葉常胤、小山氏の人々、甲斐の伊沢信光と加々美長清を大事にするように、とも述べています。

正月12日、範頼、周防より赤間関へ至り海を渡ろうとしたが船も兵糧もなく数日逗留、和田義盛のような者でさえ帰りたがる有様。26日になって、豊後の臼杵惟隆と緒方惟栄の兄弟が82艘の軍船を用意、周防の宇佐那木上七遠隆が兵糧米を献じたので、ようやく豊後へ渡ることができました。北条義時、足利義兼、小山朝政、千葉常胤、和田義盛ら、豊後にわたった人々の名前が列記されています。渡海の拠点である周防を空にするわけにもいかないので三浦義澄が説得されて周防で待機。

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by kyougen-kigyo | 2013-08-04 20:53 | 考察編

元暦元年残り

 前回の吾妻鏡、中途半端に終わったので元暦元年を最後まで。

 11月26日、頼朝は父・義朝の菩提を弔うための伽藍を建てる土地を鎌倉中に探し、御所の東南に決定。この伽藍は勝長寿院と呼ばれ、源氏の菩提寺として鎌倉屈指の大寺院になりますが、現存はせず、わずかに「大御堂ヶ谷」という地名が残っています。吾妻鏡には「南御堂」の名でも出てくるこの大寺院、本格的な発掘調査はまだされていないようです。住宅地ですから、せいぜい個人の家の建て替えの時に緊急調査する程度しかできないでしょう。大規模な発掘調査は見込めませんね。住んでる人がいる以上、仕方のないことです。ましてや室町時代頃には廃寺になっていたようですから。

 12月7日、平行盛、五百余騎を率いて備前児島に城郭を構える。平家追討使として向かっていたのが佐々木盛綱。行盛に挑発されますが船がなく(船は行盛が押さえていたのでしょう)、藤戸の海を馬で押し渡り、行盛を追い落とす。いわゆる「藤戸渡し」です。盛綱が地元の住人に浅瀬を教えてもらった後、秘密を守るためその住人を殺して藤戸を渡ったという話が平家物語にあり、謡曲や歌舞伎などにいろいろ脚色されていますが、吾妻鏡にはその話は出てきません。
 ところで西の方の地理には疎いのですが、備前児島って島だったんですね。江戸時代からの干拓で地続きになったそうです。どうも「藤戸渡し」と「児島が島だったこと」が頭の中で繋がってませんでした。そうか、児島高徳の頃も島だったんだ・・・
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by kyougen-kigyo | 2013-07-21 20:45 | 考察編

吾妻鏡、元暦元年(1184)6月~

6月5日に朝廷で小除目が行われ、20日にその報告が鎌倉へ到来。頼朝の依頼通りの人事で権大納言が平頼盛、讃岐守に一条能保、参河守に源範頼、他。義経は頻りに官途につきたがっていたけれども頼朝はあえて許さず、範頼の方を推挙したとあります。平頼盛は平家都落ちの時に京都に残り、源氏に敵対せず、この年には鎌倉に来て頼朝に歓待されて、ちょうど除目の行われていた6月5日に京都へ帰るために鎌倉を出発しています。清盛の弟という平氏一門では重要なポジションでいながら不思議な人物です。頼朝としては、頼盛は20年前に自分の命乞いをしてくれた池禅尼の息子であるという好意の他に、権力を一族で固めた平氏とは違うぞ、ということを世間にアピールしたかったのではないかと思います。

8月8日、範頼らが平家追討使として、西海へ向けて出発。
8月17日、義経の使者が鎌倉に参着、6日に左衛門少尉に任ぜられた旨を伝える。義経も平家追討使として京都を出るはずだったのですが、この勝手な任官が頼朝を怒らせ、義経の出陣は一時見合わせとなります。それでも京都の押さえ役は他にいなかったようで、9月には平氏方で討たれた平信兼の京都の所領を義経に与えており、9月14日には河越重頼の娘が義経に嫁すために上洛しています。しかし、10月になって中原広元から、9月18日に義経が院と内裏への昇殿を許された(=五位に叙任された)ことが報告されています。頼朝の意向と義経の希望のすれ違いが顕在化してきました。

一方で鎌倉の組織作りが着々と進んでおり、8月24日に行政を預かる公文所の上棟式、28日には門が立てられ、10月6日には吉書始め。公文所の別当には中原広元が任ぜられます。また、10月20日には裁判を扱う問注所の体裁も整ったようで、こちらは三善善信が任されています。文官が重用されるようになってくるわけですが、11月21日には藤原俊兼という人物が華美を咎められています。もともと派手好きな人だったようですが、この日は頼朝に呼ばれて特に装っていたようで、「着小袖十余領、其袖妻重色之」わかりやすく言えば十二単のように、小袖を重ね着して袖の部分に色を重ねて(いわゆる「襲の色目」というやつ)着飾っていたわけです。頼朝はこれを見て、俊兼自身の刀でその小袖の褄を切り取り、叱っています。どうもこの行為は他の文官に対する戒めでもあったようで、その場には中原広元や藤原邦通もいて「皆銷魂」とあります。
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by kyougen-kigyo | 2013-07-06 14:03 | 考察編

やっと、吾妻鏡に鎌倉の話題。

頼朝が動かなかったので場所としての鎌倉が吾妻鏡になかなか出てきませんでしたが、一ノ谷以後、ようやく鎌倉の様子が記されるようになってきます。

4月4日、御所の桜が咲いたので、一条能保・平時家らと共に花見。現在の暦でいう3月上旬に当たりますから、山桜ではない早咲きの桜。色が濃かったとありますから寒緋桜か何かでしょうか。花見の相手は武士たちではなく京下りの人々。大倉御所は寝殿造りだったそうですし、管弦も催されていますから、由比ヶ浜で流鏑馬や犬追物に興じる頼朝とは違った一面ですね。

4月10日には在京の義経から使者が到来、頼朝の正四位下叙任を告げます。頼朝の元の官位は従五位下。官位の制度がわからないと五位から四位、なんだ一階級か、と思われるかもしれませんが従五位下→従五位上→正五位下→正五位上→従四位下→従四位上→正四位下。かなりの躍進なのです。

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by kyougen-kigyo | 2013-06-09 20:33 | 考察編


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