カテゴリ:考察編( 55 )

義経、奥州へ

今週も雪でしたね。先週と違って重たい雪だったので庭の木の直径5センチほどの枝が折れていました。

さて、文治3年(1187)2月。
ついに義経が畿内を離れて奥州へ。この行動が結果的に、頼朝に奥州藤原氏討伐の大義名分を与えてしまうことになります。

吾妻鏡の2月10日条に「前伊予守義顕、日来隠住所々、今度遁追捕使之害訖、遂経伊勢美濃等国赴奥州、是依恃陸奥守秀衡入道権勢也、相具妻室男女、皆仮姿於山臥幷児童等云々」。前年末に義行から義顕に再改名されています。妻室というのは正妻・河越重頼の娘であり、息子や娘も伴っています。それまで家族はどこに隠れていたんだか? 道程は伊勢、美濃を経て、とあります。この前、奈良に行った時に伊勢や鳥羽が意外と近いんだな、ということは感じていました(旅先を奈良にするか伊勢にするかで直前まで迷っていたもので気になったんです)。義経は南都をメインに転々としていたようですから、国境の山を東に越えて伊勢に出たのでしょう。そこからがよくわかりませんね。美濃へ出た、ということは船は使っていないということか。東海道は頼朝の直轄下ですから、なるべく避けたかったはずです。女子供が一緒ですからそれほど速くは進めなかったと思いますが、翌月5日には義経が陸奥の国にいて秀衡も歓待していることが確実になったため、鎌倉から「厳密可被召尋之旨」京都へ申し立てた由が出ています。

ところで、義経は何を目指し、何がしたかったのか。五位を貰って素直に喜んでいるところを見れば官位を高めたかったのはわかります。引っかかるのが静御前の存在なんです。感傷抜きで見た場合、「天下の名人」と称される白拍子を妾にする、という行動は、祇王、祇女、仏を寵愛した平清盛と似ています。人気のある白拍子を側に置くというのはひとつのステータスでもあります。義経が目指したのは、朝廷内で官位を高める清盛のような立身出世だったのではないか、と思うのです。であれば、官位を貰うなという頼朝の言は絶対に理解できないし、その在りようは朝廷を離れてはあり得ない。だからこそ追討の宣旨が出てもなお1年以上、危険な京都を離れようとしなかったのではないですか。自分で平氏を滅ぼしておきながら、それと同じ姿を目指してしまったのが義経。
しかし当時としてはそういう思考回路が常識的な立身の方法だったわけで、その点、義経の方が兄よりずっと常識人だったのではないかという気がします。頼朝の思考回路を理解して行動できたのは大江広元くらいだったんじゃないかな。
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by kyougen-kigyo | 2014-02-15 20:38 | 考察編

風邪には気を付けましょう。

先週は風邪をひいてて更新する気力が出ませんでした。めったに病気しないので久々にちゃんと風邪をひいてびっくりした・・・毎朝通勤ラッシュの電車に乗るのに、めんどくさがってマスクをしなかったせいです(多分)。
回復したので吾妻鏡の続き。

文治2年(1186)9月9日、重陽節にあたって藤原邦通が菊花を献上。「被栽北面之壺」とあるので切り花ではなく根付きの状態でしょうか。気に入ったのか、毎秋必ずこの花を進上するように、との仰せ。花の枝には一紙が結び付けられていて、頼朝が開いてみると絶句詩が書いてあった、とありますが、その漢詩の内容までは吾妻鏡には記載がありません。

この後はまた義経の所在探しの話題が続いて、9月22日には在京していた武士・糟屋藤太有季によって義経の家人・堀弥太郎景光が捕まり、佐藤忠信が自害したとのこと。玉葉にも簡単にこの件は記述があります。文治2年9月20日条、「伝聞九郎義行郎従二人(堀弥太郎景光、四郎兵衛尉忠信)、搦取了、忠信自殺、景光被捕得云々」。佐藤忠信、歌舞伎に出てくる狐忠信で有名な人です。屋島の合戦で討たれた佐藤継信の弟で、奥州から義経に従った忠臣。吾妻鏡によれば宇治で義経と別れて洛中に帰り、密通していた女に手紙をやったところ女は現在の夫にその手紙を見せたので、夫は有季に通報。多勢に攻められて洛中、中御門東洞院で郎従二人と共に自害しました。
生け捕りになった堀弥太郎の方はというと、最近義経は南都の得業聖弘という僧侶の許にいたこと、木工頭・藤原範季の所にたびたび使者として赴いたことを白状。そこで南都が捜索されますが、義経は見つからなかった上に南都を荒らされた大衆が騒いで「可停止維摩大会之由」、つまり維摩会をストライキしてやる!と言っているとの風聞が流れました。南都北嶺の扱いの難しさが伝わってきます。この辺のことを玉葉で確認してみると、9月22日条に「昨日卯刻、武士二三百騎、打囲観修房得業聖弘房、忽以追捕寺家、不知何事、仍僧正遣使者被尋之、申云、九郎判官義行在此家、仍為捕取也云々、其上不能是非、然間散々追捕、聖弘逐電了、武士無成事即帰洛、…」という騒ぎで兼実が藤原氏の長者として行おうとしていた春日社の唯識会も延引、兼実にとっては唯識会の方が大事だったようです。ちなみに維摩会は無事執り行われた模様。

11月に入ると頼朝はまた藤原経房宛てに書状を送り、京中諸人が義経に同意しているから義経が捕まらないのだ、と苦情を申し立てています。玉葉の方にもこの書状は出ており、それによれば「南北二京、在々所々、多与力彼男、尤不便、於今者差進二三万騎武士、山々寺々、可捜求也、」と吾妻鏡には出ていない過激な文言。といってもこれは勿論ただの脅しで、それじゃ大ごとになるから公家の沙汰として召し取るべきだ、と続くのですが。堀弥太郎の白状に出てきた藤原範季もこの書状で訴えられて解任に至っています。そして、11月末には義経捜索の宣旨をまた畿内と北陸道に下すこと、京中を捜索すること、諸社奉幣や祈祷を行うことなどが鎌倉に伝えられました。
前にも書きましたが、この時期、義経は勝手に改名されたので吾妻鏡でも玉葉でも「義行」と記されています。
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by kyougen-kigyo | 2014-02-06 19:47 | 考察編

西行、鎌倉へ

奈良に行ったり刀の鑑賞会に行ったりしていたので吾妻鏡がどこまで読んだか忘れてしまいそうですが、奥州藤原氏の存在が顕在化してきた文治2年(1186)です。

8月15日。頼朝が鶴岡八幡宮に参詣すると、老僧が一人、鳥居の辺りを徘徊していたので梶原景季に名前を問わせたところ、佐藤兵衛尉憲清法師、今は西行と名乗っているとの返答。そこで頼朝は奉幣が終わったら和歌のことなどお話ししましょう、と誘いました。
その後、大倉御所に招いて歓談。武士としても歌人としても有名な人物ですから、頼朝は歌道のこと、弓馬のこと、いろいろ質問します。この時、頼朝39歳、西行68歳。在俗時代の佐藤憲清は鳥羽院の北面の武士です。そして頼朝の父・義朝も鳥羽院に近い人物でしたから、和歌や兵法以外にも聞きたいことは沢山あったのかもしれません。

西行は弓馬のことについては遁世の時に秀郷以来相承した兵法書は焼いてしまった、罪業となるのでみな忘れた。歌は花月に感動した折に僅かに三十一文字を作るばかりで奥深いことは知らない、と返答。しかし頼朝の質問が等閑ではなかったので弓馬のことについてはつぶさにお話しした、と吾妻鏡にはあります。8月15日といえば中秋の名月ですから月の歌の一つや二つは詠んだかもしれません。結局、終夜語り合って翌16日の昼頃に西行は退出。別れにあたって頼朝が「銀作りの猫」を贈り、西行はこれを門外で遊ぶ子供に与えた話は有名です。銀作りの猫がどのくらいの大きさでどういう物だったのかは不明ですが、何故に猫? 頼朝、実は猫好きだったりして…西行としては旅の途中で貰っても困ったのかもしれません。
西行はこの後、焼失した東大寺再建料の砂金勧進のために奥州へ。「陸奥守秀衡入道者上人一族也」とあります。同じ藤原秀郷の流れ、という縁で寄付を頼みに行ったと思われます。
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by kyougen-kigyo | 2014-01-26 14:53 | 考察編

奥州藤原氏の献上品のこと

文治2(1186)年4月24日、陸奥の藤原秀衡から鎌倉へ、請文が到着。内容は、「貢馬貢金等、先可沙汰進鎌倉、可令伝進京都由載之」朝廷への貢馬貢金等はまず鎌倉へ送るので、京都へ伝進してほしいということ。これは頼朝から送った書状に対する返事で、最初の書状の内容は「御館者奥六郡主、予者東海道惣官也、尤可成魚水思也、但隔行程、無所于欲通信、又如貢馬貢金者為国土貢、予争不管領哉、自当年、早予可伝進、且所守勅定之趣也者」。上辺は仲良くしましょうよ…と言いつつ奥州藤原氏と朝廷の間の献上品ルートに介入して藤原氏を牽制し、朝廷への影響力を弱めようという意図は明確。
5月10日に早速、秀衡から貢物の馬3疋と長持3棹が鎌倉へ送られてきたので、京都へ進上。10月にも同様に、「陸奥国今年貢金四百五十両」が送られてきたので京都へ転送しています。
奥州藤原氏がこれだけ直接に出てくるのは吾妻鏡では初です。遡って養和2(1182)年に頼朝が江ノ島で藤原秀衡調伏祈願をしていますし、秀衡が義経を援助しているという風聞も流れてはいますが、具体的な姿は出てきていませんでした。
頼朝が書状を送ったのがいつなのか不明(吾妻鏡では「去比」としか書かれていません)なので、返書が来るまでにどのくらい時間がかかっているのかもわかりませんが、頼朝が秀衡の勢力を恐れたのと同様、秀衡の方でも頼朝の軍事力は脅威だったのでしょう。要求を断って東海道と北陸道を封鎖されたら朝廷との連絡が断絶してしまいますから、仕方なく承諾したものと思われます。

一方、6月28日に一条能保の飛脚から義経の娘婿・源有綱が大和国宇多郡で合戦の末自殺したとの報告があり、閏7月10日には同じく能保の飛脚が、義経の小舎人童・五郎丸を捉えたという書状をもたらします。五郎丸によれば義経は6月20日頃まで比叡山に隠れていた。また、義経という名前が三位中将・藤原良経と同じ読みだというので義行に改名されたことを告げています。ちなみにこの後、義行では「よく行く」と読めるから捕まらないのだ、ということになって「義顕」に改名されていますが、ややこしいので義経で通します。閏7月26日には五郎丸の白状に基づき天台座主に義経をかくまった僧を出すように要請しますが、逃げたとかまだ山内にいるとかはっきりしません。武士を遣わして探させるのはさすがにできなかったようで、天台座主以下に捜索を任せるという形で落ち着いています。
義経が朝敵にされたのが文治元年の11月ですから、案外長いこと都の近辺に潜伏しています。比叡山にしても吉野の大衆にしても一枚岩ではなく内輪揉めも始終やってますから、一山を挙げて義経を支援したのではなく、一部勢力が義経に同情的だったということだと思います。
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by kyougen-kigyo | 2013-12-28 21:15 | 考察編

静御前のこと

文治2年(1186)3月1日、静が母親の磯禅師と共に鎌倉に到着。御家人の安達新三郎清経宅に逗留することになります。安達清経の家がどこにあったのかは不明。6日に義経について尋問があり、静の言によれば義経は吉野山の僧坊にいたところ大衆蜂起と聞こえてきたので山伏の姿で大峰に入った。静も慕って後を追おうとしたが大峰は女人禁制であると僧に叱られて京の方へ赴いた時、一緒にいた雑色が財宝を取って逐電してしまった。僧の名前は忘れた、と。結局、義経の所在は不明。
3月14日、行家・義経捜索の宣旨が京都から到着。この手の宣旨がしつこいくらい出されていますが、これは2月30日付けで熊野、金峰山、大和・河内・伊賀・伊勢・紀伊・阿波等の国司に向けて出されたもの。翌日の15日条に義経が伊勢神宮に参詣して金作りの太刀を奉納した、とありますし、4月20日には義経が洛中にいるらしいという噂もあり。どうやらまだ畿内近辺に潜伏中。

3月22日、静が義経の在所は知らないと言い切るので、懐妊しているから出産後に(京都へ)返すということに決定。ここで初めて静が義経の子を身ごもっていることが記述されています。

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by kyougen-kigyo | 2013-12-15 00:05 | 考察編

文治2年。

文治2年(1186)は元旦の記事が無くて正月2日から始まっています。頼朝と政子、甘縄神明宮へ御参、帰りがけに安達盛長の家に立ち寄る。安達盛長は側近中の側近であり、頼朝の乳母・比企尼の娘婿でもあるので、甘縄神明参詣から盛長宅へというコースは時々、出てきます。盛長の妻の丹後内侍が病気になって見舞いをした記事もあり、家族ぐるみな付き合い、という感じ。

翌3日は直衣始めの儀。直衣は公家の平服だけれども三位以上は直衣姿で参内できる、ということで、ここでは昨年従二位に叙された頼朝が参内に代えて鶴岡八幡宮に参詣、御奉幣。この時、千葉常胤と子息の胤頼の席次が特記されています。父が上座で子が下座が通常ですが、左右に分かれて着座した時、常胤と胤頼は相対していた(ただし胤頼は少し下方に寄って座った)ので人々は良く思わなかったけれども、これは頼朝の命によるので、常胤は六位、胤頼は五位に叙されていたため官位を尊重した、とのこと。一応、朝廷重視の姿勢を見せてみた、ということでしょうか?

21日、法皇の六十の賀のため上絹三百疋、国絹五百疋、麞牙(字が潰れていますが「鹿」の下に「章」、白米のこと)、斑幕六十帖などを京都へ進上。ついでに去年言上して決定した流刑などについて早く行われるようにとの申し入れ。お祝いの時にまでそんなこと言わなくても…という気がしますが。玉葉の2月12日条に伝聞として、「頼朝別進法皇、上絹三百疋、国絹五百疋、幔卅帖云々、以越前介兼能為使、其次奏聞種々事等」とあるのが京都への到着記事でしょう。

29日、義経の在所いまだ不明により、静を鎌倉へ送るようにと北条時政に命じます。
一方で在京の時政は盗賊退治などの治安対策で能力発揮。2月1日には捕らえた盗賊18名を検非違使に渡さず首を刎ねています。京の貴族じゃなかなかこう荒っぽいことはできないので、2月に一条能保が鎌倉から京都へ帰洛して時政と洛中警護の役を交代、時政は北条時定らを代官に置いて鎌倉へ帰参しますが、ちょっと先の5月13日条の院宣を見ると時政が関東に帰ってから洛中の狼藉は数えきれないほどで、去月29日の夜には上下7ヶ所に群盗乱入とのこと。院は時政を下向前にも引き留めたりしていて、義経で失敗したので今度は時政に近づこうとしている雰囲気もあり、実際に治安が悪くなって困っている雰囲気もあり。

このほか2月中の出来事としては、18日に義経が多武峰にいるとの情報が寄せられて、義経と師檀関係を結んでいる鞍馬の東光坊阿闍梨や南都の周防得業らの僧が鎌倉へ呼び寄せられています。19日、伊豆国特産の甘苔到来、京都へ進上。「任例」とありますし、玉葉にも関東から甘苔が来たという記事があるので時々京都へ送っていたのでしょう。26日、頼朝の二男(千鶴丸を入れるなら三男)となる若君誕生、ただし母は政子ではなく常陸介藤原時長の娘であるため、政子を憚って御産の儀式は省略され、この後も若君を養育していた大江景国が政子の不興を蒙って深沢に籠ったりしています。それでも無事に育って、後に出家して貞暁と名乗ることになる人物です。
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by kyougen-kigyo | 2013-12-08 15:00 | 考察編

吾妻鏡。

重要なひと山を越えたのでちょっと気が抜けてますが、吾妻鏡はまだまだ序盤ですね。
義経追討、守護地頭の配置、兵糧米徴収、と朝廷に対して大きく攻勢に出た頼朝。文治元年(1185)12月6日には、行家・義経に同意した人々を罪科に申し行うべし、とリストアップした折紙を帥中納言・藤原経房に遣わします。その中でも特に時政が申し請けるように、と言われた8人の中に平知康の名前も。この人、平家物語で木曽義仲にからかわれてた鼓判官です。院への折紙は処罰についてだけではなく、朝廷の人事についても細かに口出ししています。頼朝追討議論の時に、結果的に関東寄りな発言になっていた九条兼実に内覧の宣旨を下すべきこと。大蔵卿を藤原宗頼にするべきこと(つまり現職の大蔵卿である高階泰経を解官すべし、ということ)。等々、朝廷内の人事刷新を提示。
さらに、九条兼実には別に書状を送り、諸国に地頭を置くことにした経緯を弁明したりしています。

いきなり書状を送られ内覧に推挙された兼実の方は関東に肩入れしているつもりは全くなかったようで、玉葉では12月27日に頼朝の書状が届いていますが、「如夢如幻、依為珍事、為後鑑続加之」と驚いて書状と折紙の全文(吾妻鏡に掲載のものと同じ)を写しています。そして経房を招いて書状と折紙を院に進じ、最近武士の言うことはなんでも施行されているけれどもいかがなものか、と固辞の意思表示。すでに摂政がいるのに別人に内覧宣下しては乱の元であるというその文章がまた先例に通じた兼実らしい、「醍醐帝者、雖我朝無双之聖代、以菅丞相事為失、是則其権分二之故也、鳥羽法皇者、末代之賢主也、而依寵賞凶悪之臣、顕万代之失、保元以後、天下乱逆、論其源非因仁平之両権哉…」長いので全文は載せませんが主旨のはっきりしたなかなかの名文だと思います。しかし結局、内覧宣下された上に氏の長者も拝命することに。兼実としては嬉しいはずですが複雑だったでしょう。
もう一つ、頼朝から兼実宛ての書状の中に「今度天下草創也」という言葉があります。天下の草創という大きな目的の朝廷側のパートナーとして兼実を選んだということ。頼朝は兼実のことを相当、高く買っていたようです。兼実側としては迷惑だったかもしれませんが…

一方、12月8日に静が吉野から京へ送られてきています。また、この頃、平氏の公達らの捜索が行われ多数が捕虜となります。小松内府重盛の子息・忠房、屋島内府宗盛の子息の童2名、越前三位通盛の子息1名、三位中将惟盛の子息・六代など。その多くが梟首されてしまいますが、六代御前の話は平家物語にもあるので有名ですね。この時は文覚上人預かりとなって助命されました。

義経の所在は不明のまま、文治元年は終わります。
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by kyougen-kigyo | 2013-11-17 13:28 | 考察編

日本一の大天狗と、守護・地頭・兵糧米

文治元年11月3日に義経等が京を離れたことで上洛の必要なしと判断した頼朝は8日、黄瀬河から鎌倉へ戻ります(そもそも最初から上洛の意志があったかどうか疑問ですが)。『玉葉』を見ると京では11月半ばまで「頼朝が上洛する」という噂が流れており、九条兼実の元に「頼朝が鎌倉に帰った」という情報が届くのは11月23日ですから、効果は十分だったわけです。
10日には一条能保の許に「都人伝言」として、義経の反逆によって頼朝追討を宣下すべきかどうか議論が行なわれた際に誰が賛成してだれが反対したかという情報がもたらされます。朝廷内の情報、筒抜け。そのことは愚管抄でも言及されており、頼朝の妹の夫になっている能保を始めとして、「カヤウニシカルベキ者ドモクダリアツマリテ、京中ノ人ノ程ドモ何モヨクヨク頼朝シリニケリ」。情報戦でも頼朝の勝ち、というより朝廷側では関東なんて見くびっていて情報集めもろくにしていなかったのでしょう。

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by kyougen-kigyo | 2013-10-20 00:00 | 考察編

義経追討の院宣

文治元年10月18日に頼朝追討の宣旨が下されましたが、吾妻鏡では早くも22日にその報告が鎌倉に届いています。報告を聞いた頼朝、動揺も見せず勝長寿院の供養の準備に専念。
10月24日、何事も無かったかのように、勝長寿院の落慶供養が執り行われます。供養が終わって大倉御所へ還御の後、おもむろに和田義盛と梶原景時を呼んで、明日上洛するから軍士を集めて着到をつけ、その内で明暁に進発できる者を注進せよ、と命じました。実は怒ってる…? 夜半に及んで、群参した御家人は千葉常胤以下2,096人、その内すぐに上洛できる者は小山朝政・朝光以下58人という回答がありました。
翌25日、先遣隊の御家人たちが京都へ向けて進発。29日には頼朝自身が千葉常胤や土肥実平らを率いて鎌倉から出ます。ついに頼朝が上洛か…と思いきや、京の動静を見定める、とか言って駿河の黄瀬河でストップ。箱根を越えて三島のちょっと先でしかありません。後方の奥州の動向が気になっていたのでしょう。

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by kyougen-kigyo | 2013-10-12 15:43 | 考察編

頼朝追討の宣旨

勝長寿院の落慶供養があった文治元年(1185)10月から少し遡って5月11日、頼朝を従二位に叙すという知らせが鎌倉に届き、15日には義経が壇ノ浦で捕虜になった平氏の棟梁、平宗盛とその子・清宗を連れて酒匂宿に到着。明日鎌倉に入るという使者の言でしたが、北条時政らが宗盛・清宗の迎えに派遣され、義経は「鎌倉に参るべからず」と酒匂で止められてしまいます。翌日、宗盛父子は若宮大路を通って大倉御所の西の対へ。頼朝が宗盛と対面するのは翌月7日のことなのでしばらく間があきますが、この間に有名な「腰越状」が義経から大江広元に届けられています。腰越状、名文ではあるけれども義経が書いたものではなく偽書だろうと言われています。後世、長らく文章のお手本として使われるようになるのですから捏造した人の文章力が非常に高かったということですね…なぜ酒匂で止められてたはずなのに腰越なんだろう?

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by kyougen-kigyo | 2013-10-05 23:11 | 考察編


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