カテゴリ:考察編( 55 )

頼朝、出陣

文治5年7月12日、鎌倉ではもう勅許が無くても出陣してしまえという空気ですが、重ねて奥州泰衡追討の宣旨を要求する手紙を京都へ送っています。16日、京都の一条能保の使者後藤基清と、先日(って何度も出しているからどれだかわかりませんが)鎌倉から上京した飛脚、到着。相変わらず宣旨は出ません。念のため玉葉のこの時期を見てみたのですが、鎌倉や奥州に関する記述は見当たりませんでした。関わりたくなかったのか、興味がなかったのか。

7月17日、奥州下向直前の作戦会議。それによれば、

①東海道からは千葉常胤と八田知家を大将軍として、それぞれ一族ならびに常陸下総の勇士等を具し、宇大行方から岩城岩崎経由で、遇隈河(阿武隈川)を渡り(大手勢と)合流。
②北陸道からは比企能員と宇佐美實政を大将軍として下道を経、上野国高山、小林、大胡、左貫らの住人を催しつつ越後国から出羽国念種関(鼠ヶ関)へ出て合戦する。
③頼朝は大手、中路から下向。先陣は畠山重忠。

ということで太平洋沿岸・日本海沿岸・内陸の3手に分かれて進軍することに。翌日には早速、②の比企能員が出陣しており、19日には頼朝が出陣。頼朝自身がまともに出陣するのはいつ以来だろうか、ずいぶん久しぶりです。吾妻鏡の7月19日条には頼朝に従って出陣した御家人たちの名前が列記されていますが、その中に①の大将軍であるはずの八田知家の名前があり、この名簿が正確なら途中まで大手勢と一緒に行って分かれたことになります。名簿に千葉常胤の名前はないので千葉氏は所領から出陣したのかもしれません。

7月(新暦でいう所の8月)に出陣したのは当然、奥州の冬の寒さや雪を避けるためでしょう。奥州追討が終わって頼朝が鎌倉に帰ってきたのが10月の末、今でいえば11月の末。遅くなればなるほど不利になる、だから朝廷に早く宣旨を出せとしつこく要求して、もうこの辺がリミットだということだったのかもしれません。この後の吾妻鏡は大手の進軍の様子が続きます。
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by kyougen-kigyo | 2014-09-27 17:52 | 考察編

奥州藤原氏追討へ

だいぶサボり癖が付いてしまいました。そろそろ文章書きたくなってきたのでぼちぼちと吾妻鏡の読み進め。奥州藤原氏追討の話でした。私、半分東北の血が入ってますので若干書き難さを覚えるのですが。

前回の吾妻鏡、義経の首実検の所まで書きました。これが6月13日。24日、小山朝政が献じた絹でもって千葉常胤に旗を調進するよう命じています。その晩届いた京都の一条能保からの手紙に、朝廷の議論は義顕(義経)はすでに討たれたのだから奥州追討の儀は猶予するように、という方向になっている旨が記されています。これを受けて25日、追討の宣旨を下すよう重ねて京都へ要請。
26日には奥州で兵革、泰衡が宣下に従い弟の泉三郎忠衡を誅したとのこと。奥州は奥州で朝廷の支援を得ようと必死です。
27日、奥州征伐の沙汰のほか他事なし、という状態で鎌倉には軍勢が催されその数すでに一千人(もっとも再々書いているように吾妻鏡の数字はあてになりません。)また、例年8月に行われる鶴岡放生会は前倒しで7月1日に行われることになりました。

6月30日、大庭平太景能は古老であり兵法故実を知っているので頼朝に呼ばれ、奥州征伐のことにつき聞かれます。天聴を窺うに勅許が無く、御家人を召集したもののどうしたらよいか、という問いに、景能は思案するまでもなく「軍中聞将軍之令、不聞天子之詔云々、已被経奏聞之上者、強不可令待左右給、随而泰衡者受継累代御家人遺跡者也、雖不被下綸旨、加治罰給、有何事哉、就中群参軍士費数日之条、還而人之煩也、早可発向給者」と返答。これに御感あり景能は御厩の馬を賜っています。「軍中聞将軍之令、不聞天子之詔」というのは史記あたりから引っ張ってきているようです。つまり大庭景能は史記、あるいはそれを引用したような書物を読んでいた、なかなかの勉強家だったのだろうということ。
なお、馬を庭上に引いたのは小山七郎朝光でしたが、景能は縁側にいて、朝光は馬の縄の端を景能の前に投げ、景能は座ったままこれを取り、郎従に渡しています。その場に頼朝がいなくなってから景能は朝光に、自分は老人であるうえ、保元合戦の時の傷で歩行が不自由である(=馬を受け取りに庭に下りられなかった)、拝領の御馬の縄を投げてくれた芳志は千金に値すると礼を述べています。小山朝光は頼朝のお気に入りの一人ですが、こういう気のまわる所が評価されたのでしょう。

7月1日は予定通り鶴岡放生会が行われ、8日には千葉常胤が新調した御旗を献上。旗は頼義の故実に倣って寸法は一丈二尺、二幅、白糸の縫い物で上に「伊勢大神宮八幡大菩薩」下に鳩が二羽向かい合っている姿(源氏は白旗のはずですから白い絹布の上に白い糸で刺繍したということ?)。常胤に調進させたのは治承4年挙兵の時の佳例により、小山朝政に絹を進上させたのは小山氏の先祖藤原秀郷が朝敵を滅ぼした吉例によるとのこと。この旗は三浦義澄が御使となって鶴岡別当坊に遣わされ、宮寺(鶴岡八幡宮)で七日間加持することになります。また、下河辺行平が御鎧を調進。普通は袖に付ける笠標が冑の後ろに付いていたので頼朝が問うと、これも秀郷の吉例ということで、こういう時は各家の吉例だの故実だのがよく出てきます。
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by kyougen-kigyo | 2014-09-13 15:19 | 考察編

義経追討

文治5年(1189)2月25日、鎌倉から奥州へ泰衡の形勢を伺わせるための使者を派遣。翌日、入れ替わるように去年奥州へ行った官使が上洛途中で鎌倉に逗留した由。

奥州とは関係ありませんが、2月28日に彗星が出現したという記事が出てきます。彗星のような天変は凶兆とされることが多いので、京都側では天文奏など提出されていますが、吾妻鏡では頼朝が寝所から出てご覧になった、という記述のみ。その時に随従したのが三浦十郎義連、小山七郎朝光、梶原源太景季、八田太郎朝重。「夜中出御之儀常如此、是皆近仕也」とそっちの方が重要視されているような。鎌倉時代も最初の頃だとあまり吉凶とかには興味がなさそう。実朝の時代になると京都と同じような占い騒ぎが起きるようになりますが。

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by kyougen-kigyo | 2014-07-20 20:55 | 考察編

久しぶりに吾妻鏡

最近、吾妻鏡どこまで読んだか忘れてきてしまいました…文治4(1188)年、奥州へ向けて動き出しているところですね。文治4年の下半期の動向。

8月9日、台嶺の悪僧が義経に味方したこと、及び泰衡が義経を匿っていることについて、朝廷の御沙汰が遅いという催促が京都の右武衛(一条能保)に伝えられています。

9月14日、梶原景時が預かっていた囚人・城四郎長茂を、師檀関係にある僧・定任が赦免して御家人に加えて欲しいと願い出たため、頼朝と対面の座を設けるも、呼び出された長茂が間違えて頼朝の席に座って恥をかいたため沙汰やみに。長茂の先祖は狐に育てられたという伝説も記載されています。狐女房譚にはなっていないようですが、類話として扱ってよいものでしょうか。
ちなみに長茂は翌年7月19日、鎌倉から奥州へ出兵する間際に景時の言上により赦免され、8日後に下野の新渡戸で御家人らの手勢の着到を出させたところ、長茂の郎従が200余人になっていたので頼朝が驚き、景時が散り散りになっていた郎従が旗を見て集まってきたのだと説明した話が出ています。

10月25日、義経追討の宣旨状の案文が鎌倉に到着。正本は奥州へ向かっている、とのこと。「若従凶徒於図逆節差遣官軍宜令征伐」とだいぶ脅しが入ってきました。

奥州の話とは関係ありませんが、11月27日条には相模国豊田庄にある大庭景能の父・景宗の墳墓が盗掘されたという事件が出てきます。「群盗競来掘開彼塚、盗取所納之重宝等」とあります。鎌倉時代の墳墓というのはどういう形態だったのか、一番有名なのは鎌倉によくある「やぐら」ですが、大庭氏の墓は「塚」とあるから岩窟形式ではなく埋葬形式。鎌倉時代の上層部なら火葬も行われていましたが、この文章からは土葬か火葬かは不明です。盗掘されるくらいですから副葬品もそこそこ入っていたのでしょう。

12月11日、義経追討の宣旨が再度出された上に院庁下文も添えられて官吏が下向、この日、鎌倉に到着。内容は前と同じく義経を捕らえなければ官軍を遣わすというものです。こう見てくると宣旨というのは随分たくさん出されているのだな…という感じがします。
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by kyougen-kigyo | 2014-07-05 20:36 | 考察編

奥州と貴海島(つづき)

文治4年(1188)の上半期は奥州関係と貴海島関係が同時並行で進んでいます。

3月5日、鎮西から宇都宮信房の書状到来。貴賀井島の海路を図にして献覧。貴海島だったり貴賀井島だったりするので統一しようと思ったのですが、両者使用頻度同じくらいなんですね…頻出語句ではないのでまぁ、どっちでも良いか。みんなから行くのは難儀だと言われて思いとどまっていた頼朝、信房の絵図を見てそんなに大変じゃないかも?と計画再開。難儀だと言っていた人々は鎮西に行ったことがない人々がほとんどだったでしょうから、イメージと「難儀」の尺度が違っていたと思われます。

4月9日、奥州の泰衡に対して義経を捕らえるよう命じる宣旨と院庁下文を帯した使者が鎌倉に到着。宣旨に曰く「義経無所容身、逃下奥州、擎先日之毀符(以前に出された頼朝追討の宣旨を指す)、称当時之詔命、相語辺民欲令野戦云々、件符者、縡不出従叡襟、自由之結構、武威之所致也、」・・・頼朝追討の符は叡慮から出たものではなく撤回したものだと改めて強調していますが、綸言汗の如し。一度出した宣旨を無かったことにするのは難しい。義経としては使えるものは使うでしょうから「毀破旧符」を有効な宣旨として人集めに利用するのは当然だったでしょう。

5月17日、天野遠景らが貴賀井島に渡って合戦を遂げ、平定したとの言上あり。誰と合戦したのかは不明ですが、とりあえずこれで西の方の問題は収まった形です。

6月11日、泰衡から京へ献上する馬・金・絹などが大磯に到着。三浦義澄がこれを召し留めるべきかと言いますが、頼朝は公物だから留めることはできないと回答。

奥州情勢が緊迫する中ですが、7月10日、万寿公(後の頼家)の鎧の着初め式が行われています。寿永元年(1182)生まれですから7歳のお祝いというところでしょうか。鎌倉は後継者もいて安泰である、ということを示す意味もあったと思います。
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by kyougen-kigyo | 2014-05-25 18:08 | 考察編

奥州と貴海島

文治3年(1187)、秀衡入道が義経を扶持して反逆を起こしている由を頼朝が訴えるので、院庁下文が陸奥の国に下され、その時に関東からも雑色が遣わされていたのが9月4日に帰参。秀衡は異心は無いと言っているけれども雑色が言うには既に用意(反逆の)があるようだ、ということで、その雑色を京都へ行かせて奥州の形勢を言上。
この翌月、秀衡は死去。義経を大将軍として国務を取らせるようにと跡継ぎの泰衡に遺言したと、吾妻鏡には記されており、玉葉の文治4年正月9日条にも噂として「以義顕(義経)為主君、両人(秀衡の息子2名)可給仕之由有遺言」とあります。事実ならば秀衡は相当、義経に肩入れしていたわけですが、奥州の統治者の跡継ぎである息子たちとしては、親からそう言われて、どうだったんでしょう。

一方、頼朝が奥州と同じくらいに執着していたらしいのが、奥州とは正反対にある貴海島。これは今の喜界島ではなく鹿児島県三島村の硫黄島ではないかということです。この島に義経に同意した輩が隠れているのではないかという疑いがあったので(というのは表向きの理由だと思いますが)、9月22日に宇都宮信房と天野遠景が鎮西へ派遣されました。
調査報告の書状が遠景から届いたという記事が翌年の2月21日にあります。郎従らを島に渡らせ形勢を調べた結果、追捕は子細ないけれども、鎮西の御家人が一揆(この場合の「一揆」は一致、同意、結束、というような意味)しないので重ねて御教書を下してほしい。信房は自分で渡海しようとしていたのを遠景が止めたので親類を遣わした。という内容。
貴海島追捕の噂は京都にも届いていて、計画を知った九条兼実から、行くのは大変で軍士の煩いとなるだけだからだからやめた方がいいと真っ当な意見を言われた頼朝、少し延期。玉葉の方に何か記事があるかと思ったのですが、ざっと見た感じでは有りませんでした。兼実のことだから、もっと丁寧に読めば書いてあるのかもしれませんが。最近史料の読み込みをさぼっているもので。

そろそろ鎌倉にも行きたくなってきました。文学館のバラ園が見ごろだろうな・・・
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by kyougen-kigyo | 2014-05-18 21:27 | 考察編

流鏑馬のこと

最近、吾妻鏡から話が離れているので軌道修正。

文治3年(1187)4月1日、山科に頼朝の宿所の地を所望しています。ついに上京の準備、です。まだ先ですが。

8月1日から15日までの鶴岡放生会が始まるのがこの年。4日には流鏑馬の射手・的立等の役割分担が決められています。熊谷直実、的立の役を命じられて「射手より劣った役だ」と不服申し立て。この役は下職ではなく射手よりも格の高い役なのだ、と説得されてもやらなかったので所領を減らされました。熊谷直実、建久3年(1192)の境相論で不利になったのに腹を立てて遁世しています。平家物語で有名なように敦盛を討ったのがきっかけで出家したのでは全くありません。この文治3年の流鏑馬の件でもずいぶん意固地というか、情の強い人物だな、という印象。敦盛の物語を知ったら本人、驚くでしょうね。怒り出すかもしれません。

9日、鶴岡境内の清掃、馬場の埒の作成。15日が鶴岡放生会の当日です。「有流鏑馬、射手五騎、各先渡馬場、次各射訖、皆莫不中的」と御家人たちが腕を競った後に呼ばれたのが、諏方大夫盛澄。「秀郷朝臣秘訣」を習い伝えた流鏑馬の名手ですが平家に属していたために囚人となっていました。流鏑馬一流が絶えることを惜しんで断罪せずにいたのを召し出して、頼朝の厩で一番の悪馬を賜り流鏑馬を射ることに。厩の舎人がその馬の癖をこっそり教えてくれたこともあって無事、全ての的に射当てますが、今度は小さな土器を五寸の串に挟んだものを3本射るように命じられ、これも全て的中。さらにその串3本を射よという難題を出されますが見事に射切ったので、頼朝も機嫌が良くなり、晴れて罪を許されました。

鶴岡の流鏑馬は何度か見に行ったことがありますが、馬を走らせながら上体がまったく動かないで矢を射る技術はすごいものだと思いましたし迫力ありました。あそこの流鏑馬はサラブレッド(多分)を使っているので当時とはかなり雰囲気が違うとは思います。
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by kyougen-kigyo | 2014-04-28 20:25 | 考察編

人物評③ 梶原景時 つづき

悪い噂を頼朝に吹き込んでいる印象になってしまった景時ですが、実は良い方の報告もしているのです。文治4年6月5日、大雨によって戌刻に洪水が起き、勝長寿院前の橋が落ちました。そのとき御堂の宿直をしていた飯田次郎という人、泳ぎが得意だったようで水に入って二町ばかり流された橋を留めました。通りかかった景時がこの様子を目撃、すぐに御所に戻って頼朝に報告したので、飯田は御馬を賜りました。良きにつけ悪しきにつけ、御家人たちの言動を報告するのが景時の役目。特に仲の良い人がいた様子もありませんから、ある意味、公平性という点で適役だったのかもしれません。

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by kyougen-kigyo | 2014-03-10 20:03 | 考察編

人物評③ 梶原景時

文治3年(1187)3月10日、土佐の住人・夜須七郎行宗が壇ノ浦合戦の時に平氏の家人岩国兼秀を生捕りにした功で恩賞を求めたところ、梶原景時が壇ノ浦の時に夜須という者はいなかった、兼秀は自ら降ったのだと言って争論になり、頼朝の決裁を仰ぐことに。行宗は同じ船に春日部兵衛尉が乗っていたと言ったので春日部が呼ばれて、夜須は勿論そこにいたと証言したので、行宗は賞を加えられ、景時は讒訴の科により鎌倉中の道路を作るという裁決になりました。

梶原景時といえばこのような讒訴で悪名高い人ですが、実際には官僚タイプの職務に生真面目な人だったのではないか、という気がします。夜須行宗の一件にしても、岩国兼秀を降したのは行宗じゃなくて自分だ!と言ったわけではないし、行宗の恩賞を妨げたところで景時にメリットは無さそうです。壇ノ浦に夜須がいたことに気付かなかっただけなのでは…個人的には興味がある人物なので、ここでちょっと吾妻鏡に出てくる景時関連の記事を見てみたいと思います。

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by kyougen-kigyo | 2014-03-03 19:31 | 考察編

得業聖弘のこと

今日は薄曇り、空気が冷たいと思ったら風花が舞っていました。ここのところ毎週雪を見ています、東京では珍しいことに。


文治3年(1187)3月8日、義経を南都でかくまっていた僧・周防得業聖弘が鎌倉で頼朝と対面し、問答。ちなみに「得業」は僧の階級名、「周防」は出身地? なので名前は「聖弘」です。吾妻鏡では「聖仏」とも書かれています。前年9月の義経捜索騒動で捕まって鎌倉に召し下され、小山七郎朝光に預けられていたようです。

「予州者欲濫邦国之凶臣也、而逐電之後、捜求諸国山沢、可誅戮之旨度々被宣下畢、…中略…貴房独致祈祷、剰有同意結構之聞、其企如何者」という頼朝直々の問いに対して聖弘は、「予州は君の御使として平家を征した時、合戦無為の祈祷を契約したので年来丹誠を抽んでてきた、報国の志ではないか。予州が関東の譴責を蒙って逐電した時、師檀のよしみで南都に来たので、まずは害を遁れて二品に謝罪するよう諷詞を加え、下法師を添えて伊賀国へ送った。その後は全く音信不通である。謀反を祈祷したのではない、逆心を諫めたのである。」─という申し開きに加えて、「関東の安全は予州の武功によるものであり、讒訴によってその奉公を忘れ恩賞地を召し返されたら逆心を生じるのも当たり前だ。早く兄弟魚水の思いを成して治国の謀りとするべきである」と義経だけでなく頼朝を諫める言葉を堂々と述べました。頼朝、こういう真っ直ぐな諫言にはわりと弱い。「得業の直心に感」じて、勝長寿院の供僧職とし関東の繁栄を祈祷するよう仰せ含められた。─ というのが得業聖弘の一件。

『現代語訳吾妻鏡』の注釈でも得業聖弘の生没年は不詳とあるので、この時聖弘が何歳だったのかはわかりません。多分、義経もこの調子で諭されたのでしょうから、兄弟そろって聖弘に叱責されたかたちです。頼朝は聖弘の言葉に納得した様子もないけど反論した様子もない、あまりに正論を述べられてぐうの音も出なかった、というところ。
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by kyougen-kigyo | 2014-02-23 20:56 | 考察編


鎌倉、登山、日本刀、その他諸々


by 柴

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