カテゴリ:考察編( 55 )

久々に吾妻鏡。

今年はあんまり鎌倉に行けませんでした…11月に行こうと思っていたら肺炎になってしまったし。せめてストップしてる吾妻鏡の読み進めを。

前回がだいぶ前ですが(去年の7月だ…)、文治5(1189)年9月から。
9月22日、葛西三郎清重が陸奥国の御家人を総括する奉行に任命されています。
23日、頼朝が平泉の無量光院へ参詣。
24日、葛西清重が奉行に加えて平泉郡内の検非違使所を管領するよう命じられ、更に伊沢、岩井、牡鹿など数ヶ所を拝領。ここから奥州葛西氏が始まります。
27日には頼朝が安倍頼義の衣河の旧蹟を見物、28日に帰途につきますが、その途中で田谷窟を見ています。

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by kyougen-kigyo | 2016-12-20 21:35 | 考察編

奥州追討の戦後処理

吾妻鏡は文治5年9月9日まで読了でした。10日は、鎌倉では鶴岡末社熱田社の祭り。奥州では戦後処理。中尊寺経蔵別当が、合戦で寺領の土民が逐電してしまったから安堵の旨仰せ下してほしいと訴えてきています。翌日も平泉の寺々の僧たちが寺領安堵を求めてきており、いずれも寺の要求が通っています。
11日、陣岡を出立して厨河へ。12日、厨河では、この郡を拝領する予定の工藤行光が盃酒椀飯を用意しています。13日、今回の騒動によって逃げてしまった庶民を呼び寄せて本所に戻るよう言い含め、宿老には綿衣一領と馬一匹を下賜。また、由利八郎は恩免、ただし兵具は許されず。
14日、頼朝が奥羽両国の土地に関わる書類を求めますが、平泉館が炎上した時に焼失したとのこと。古老に尋ねると奥州の住人豊前介実俊と弟の橘藤五実昌が故実を存じているということで召し出して子細を問うたところ、兄弟は覚えていた両国の絵図などを注進。余目三所を漏らすのみでほぼ完璧だったので、感心した頼朝は即、二人を召し使うことに決定。
15日、樋爪俊衡入道と弟の季衡が子息たちを連れて降人として厨河へ。齢六十の俊衡を憐れんだ頼朝、彼を八田知家に預けます。知家が宿所に連れて帰ると、俊衡はひたすら法華経読誦のほかしゃべらない。知家は仏法を崇敬する人だったので非常に喜んで翌日、このことを頼朝に伝えると、頼朝も法華経を尊んでいたので俊衡を罪人とはせず本所を安堵。ただし、18日の京都への消息を見ると弟と子息たちは釈放されなかったようです。
17日、清衡以下の藤原三代が造立した堂舎について、平泉の源忠已講・心蓮大法師らが詳細を書いて献じたので、寺領は先例に任せて寄付し、地頭等の乱妨を禁止する旨を一紙に書いて圓隆寺南大門に貼り出しました。17日条には以降、中尊寺・毛越寺・無量光院・鎮守・年中恒例法会の事・一年中問答講の事・寺に隣接する秀衡の館の事・高屋の事、と寺院周辺の詳細が記されています。
18日、秀衡の四男高衡が降人となる。この日、残党がほぼ捕らえられたとして京都に手紙を送っています。捕虜を鎌倉に連行するつもりだが京都に連れて行った方がいいかどうかのお伺い、及び宣旨を待たずに出陣したことへの謝罪。
19日、厨河柵を出立、平泉へ戻る。
20日、奥州羽州の事につき論功行賞。千葉常胤が最初に恩賞を拝領するのが定例だったようで、これはやはり治承4年の挙兵の時に即座に駆けつけて鎌倉入りを進言したことによるのでしょう。土地を貰った人、旗を貰った人など様々ですが、葛岡郡の「狭少之地」を賜った畠山重忠は、皆が御恩に預かったのは抜け駆けを止めずに他人に功をたてさせた重忠のおかげだぞ、と傍輩につぶやいております。
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by kyougen-kigyo | 2015-07-26 10:20 | 考察編

泰衡追討の院宣

文治5年9月7日。宇佐美實政が生捕った泰衡の郎従由利八郎を連れて陣岡へ参上。ここで天野右馬允則景と相論になり、梶原景時が由利八郎を怒らせた話はだいぶ前に書きました(http://jinjitsu.exblog.jp/21805418/)。相論は實政の勝ち。由利八郎の態度を聞いて会ってみたいと思った頼朝、由利八郎に「泰衡は河田次郎一人のために誅されてしまった、2か国を管領して17万騎の貫主でありながら20日の内に一族滅亡したのは言うに足りないことだ」と言うと由利八郎に左馬頭殿は海道15か国を管領しながら1日も支えず零落して数万騎の主であったのに長田庄司に誅せられたのだからその甲乙は如何に、と言い返されてしまいます。それは当然言われるだろうなぁ、と思うのですが。由利八郎は畠山重忠預かりになりました。

8日、安達新三郎が合戦の次第を帥中納言に報告するために飛脚として上洛。
9日、鶴岡八幡宮臨時祭。流鏑馬など通常通り執行されましたが頼朝はまだ蜂杜に逗留中。高水寺の僧侶たち16人が、御家人の僕従が寺に乱入して金堂の壁板13枚をはがして持って行ったと訴えてきたので驚いた頼朝、景時に究明させたところ宇佐美實政の僕従の所為と判明したので、訴えてきた衆徒の前で刑を加えるようにということで…その刑罰がなかなかに恐ろしい。「令切件犯人之左右手於板面以釘令打付其手訖」当時としては普通なのかもしれませんが。頼朝はさらに寺の興隆のため所望があるかどうか聞きますが、僧侶たちは訴えが即座に裁断された上は所望なし、と寺に帰っていきました。頼朝はその他の藤原氏が建立した堂塔についても僧侶は罪科にはせず仏閣の数に応じて灯油田をあてることを表明しています。信仰心というより寺院勢力を敵に回すと面倒というのもあるでしょう。

この日の晩、京都の一条能保からの使者が陣岡に到着、7月19日付の泰衡追討の院宣を持参。使者の言によると24日に奉行蔵人大輔が帥中納言に送り、26日に帥中納言から一条能保に送られて28日に出京とのこと。それなら8月中に届きそうなものです。陣が移動しているから到着が遅れた可能性もありますが、7月19日といえば頼朝が鎌倉を出立した日ですから、後出ししながらその日付に合わせて院宣を書いたのでは。なにやら現代のお役所の書類と同じような感覚ですが。
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by kyougen-kigyo | 2015-06-15 08:46 | 考察編

平泉~藤原泰衡滅亡

かなりサボってます。今月から少し時間ができそうなので頑張って吾妻鏡読みます。

さて、文治5(1189)年8月21日、頼朝の軍は平泉へ向けて進軍。泰衡は館に火を放って逃亡します。22日の申の刻に頼朝が到着した時には泰衡の平泉館はすっかり焼けて無人となり、ただ坤の角に一宇の倉が焼け残っていた、と吾妻鏡にはあります。葛西清重と小栗重成にその倉を開けさせてみたところ、沈や紫檀で作られた厨子が数脚、その中には牛玉、犀角、象牙の笛、水牛角、紺瑠璃の笏、金の沓や玉幡・華鬘、蜀江錦の直垂、縫わずの帷、金造りの鶴、銀造りの猫、瑠璃の灯爐、南廷百(銀のことらしいですが「各盛金器」とあります)、等々、珍しい宝物ばかり。隅っこに残っていた倉一つでこれですから平泉館が焼けてなかったらどれだけのものが残っていたか。象牙の笛と縫わずの帷は葛西清重に、玉幡や華鬘は小栗重成が氏寺の荘厳に使いたいという望みにより与えられました。「銀造猫」は頼朝も持ってましたっけ。西行への餞別になりましたが。西行は文治2年に頼朝と会った後、その足で奥州へ東大寺勧進に行っていますから、頼朝からもらった銀の猫、実はその辺の子供にあげたんじゃなくて奥州まで持って行って勧進の御礼に秀衡の所に置いてきた可能性もなくはない?

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by kyougen-kigyo | 2015-06-01 19:25 | 考察編

多賀城~玉造

文治5年8月13日、北陸道を進軍していた比企能員・宇佐美實政ら、出羽の国に入って泰衡郎従の田河大郎行文、秋田三郎致文らを梟首。頼朝、多賀国府へ。

14日、泰衡が玉造郡にいるという風聞があり、また国府中山上物見岡に陣取っているという報告もあり、迷った末に主力は黒河(黒川郡)を経て玉造へ直行、物見岡へは小山朝政・宗政・朝光、下河辺行平らを派遣。物見岡では確かに陣はあったのですが大将軍はすでに逐電、幕だけが残されており、4、50人の郎従がそこに留まっていましたが全員が梟首あるいは生捕りになりました。物見岡を制した後、朝政が大道に出て主力と合流するべきだろうか、というと行平が「玉造郡合戦者、可為継子(事)歟、早追可参彼所者」と答えています。私は基本的には吉川本『吾妻鏡』(国書刊行会。国立国会図書館のデジタルコレクションで全文公開されているので便利)を使っています。この「継子」の部分、わからなかったので『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)と岩波の読み下し版『吾妻鏡』の助けを借りようと思いましたが解釈が分かれているようで…

『現代語訳吾妻鏡』では「継子」を地名と見て、「継子で合流しよう」というニュアンス。注釈には宮城県石巻市に継子前の字があるが未詳、と書かれています。岩波文庫版『吾妻鏡』では「子」ではなく「事」を採用して「継の事たる可きか」、つまり玉造郡の合戦は物見岡に続く合戦だから早く行こう、という意味でしょうか?
両書、全然違う解釈。私にはどちらとも判断付かないのですが、ただ、地名の「継子前」説をとると、この後の進軍経路がちょっとおかしくなるような気がします。20日の卯の刻に、頼朝軍は泰衡の「多加波波城」を囲んでいます(泰衡は逃亡済み)。「多加波波城」は『現代語訳吾妻鑑』では「たかばば」と振り仮名を振っているものの、所在地未詳、一説に宮城県大崎市岩出山字葛岡、と注釈があります。多加波波城を取った後、葛岡郡に出て平泉に赴く、と書かれていますから、多加波波城がどこであったにせよ多賀城からは内陸方面に向かったわけです。ところが継子前は石巻市ですからだいぶ海側。14日条の「経黒河」という経路からもちょっと逸れてしまいます。だから注釈でも「未詳」の一言が付いているのでしょう。現代の字・継子前は関係なしにどこかに「継子」という地名があったのかもしれませんが。研究し尽くされていそうな書物でもまだまだ分からないことは多そうです。

さて、多加波波城の奥州勢は合戦するまでもなく投降。20日の夜、頼朝は先陣の軍士らのうち、小山・三浦・和田・畠山・武蔵国党の者たちに今後の合戦における注意事項を書いた書状を遣わしています。曰く、平泉で泰衡が立て籠もったら僅か千騎、二千騎で馳せ向かってはならない、二万の軍兵を調えて競い至るべし、すでに敗北した敵であるから味方に一人も害が無いように。ここまでは関東勢、かなり突っ走って抜け駆けしたい放題という感じでしたが、もう大勢が決したのだから被害は少なくするように釘を刺された形です。
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by kyougen-kigyo | 2015-04-05 20:38 | 考察編

阿津賀志山の論功行賞

文治5年8月11日、阿津賀志山を越えた頼朝軍は船迫宿に逗留。畠山重忠が国衡の首を献じたので大いに褒めた所、最初に矢を射た和田義盛が自分の功績であると言上して、重忠と功績の争論になりますが、国衡の鎧を取り寄せて確認すると射向の袖3枚を射通した痕跡がはっきりと残っていました。頼朝が重忠に矢を射たかどうか尋ねると重忠ではないとの答え。こんな矢の跡を残せるのは重忠でなければ義盛しかいないということで、義盛の功績に間違いなしという結論になりますが、重忠は義盛が矢を射たことを知らず郎従が首を持ってきたから重忠の功績と思ったので…という重忠擁護論が展開されています。吾妻鏡、ここまでもそうでしたが、ずいぶん重忠さんを持ち上げている。
翌12日、抜け駆けの中にいた13歳の河村千鶴丸の活躍を頼朝も聞いていたので、父の名を尋ねると河村秀高の四男である由。そこで俄かにその場で元服することになり、千鶴丸改め河村四郎秀清と名乗ることになります。河村という苗字、見覚えがあると思ったら石橋山の合戦の時に大庭景親側に与して捕らえられた河村義秀の弟にあたるとのこと。母の計らいで身を隠していたのが、ここで頼朝に認められて河村家再興成ったということですね。ちなみに兄の義秀も後に許されています。
この日、太平洋岸を進軍していた千葉常胤・八田知家の軍も合流しています。

ところで阿津賀志山防塁跡を含む地域が、文化庁の「歴史的風致維持向上計画」に認定されたようです。
文化庁の報道発表ページへ
http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/2015022301.pdf
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by kyougen-kigyo | 2015-03-01 13:25 | 考察編

阿津賀志山越え

11月から吾妻鏡の記事あげてませんでした…いよいよ阿津賀志山を越えるところ。
文治5年8月9日の夜、明朝に阿津賀志山を越えて合戦を遂げることが決定。ところが三浦義村、葛西清重、工藤行光、工藤祐光、狩野親光、藤沢清近、河村千鶴丸の7人が抜け駆けしようと先陣である畠山重忠の陣をこっそり通過。ちなみに千鶴丸は13歳と注記あり。これに気付いた重忠の郎従の成清が「面目ある先陣なんだから抜け駆けは止めるべきだ」と重忠を諫めますが、重忠曰く「すでに先陣を承っている以上、重忠より先に合戦する者はみな重忠の勲功とすべきであり、かつ先に行きたがっている連中を妨げるのは武略の本意ではなく、また自分が恩賞を欲しがっているように見えるから」と抜け駆けの7人を止めることはしません。

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by kyougen-kigyo | 2015-02-08 10:10 | 考察編

阿津賀志山の戦い

なかなか定期的に書くというのは難しいものです。毎日ブログ更新している人はすごいと思う。

さて、前々回に書いたような地勢を踏まえた上で吾妻鏡8月7日条を読むと。夜半に雷鳴がして御旅館に霹靂あり。いきなり宿所が落雷に見舞われてます。泰衡は頼朝が奥州に向かっていると聞いてすでに阿津賀志山に要害を固めていた。五丈の堀に阿武隈川の流れをひき入れ、異母兄の西木戸太郎国衡を大将軍として、金剛別当秀綱、その子下須房太郎秀方以下二万騎が山内三十里の間に満ちたと書いてあります。鎌倉時代の1里は今の度量衡の約3.9㎞より小さいかと思います(この辺、不勉強なので不確かですが)。が、それにしたって厚樫山周辺、30里もないでしょ。まぁ、吾妻鏡の執筆者は厚樫山なんて見たこともないんでしょうから…「何里が程に満ち満ちたり」という表現は軍記物の定番ですね。

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by kyougen-kigyo | 2014-11-23 11:26 | 考察編

宇都宮~国見宿

大手の頼朝軍が宇都宮に1泊して7月26日に出立したところ、佐竹四郎秀義が常陸国から追いついて参加。佐竹の旗が頼朝と同じ無文の白旗だったので、頼朝がこれを咎めて扇を賜り(「出月」と割注があるので月の絵が描かれていたということでしょうか)、佐竹の旗の上に付けています。ところで常陸からなら、太平洋岸を進軍している千葉常胤軍の方が合流するにははるかに近い(というか待ってれば通る)と思うのですが、佐竹氏は治承4年に千葉氏の親戚である上総広常に討たれていますし、千葉氏の下にはつきたくなかったのでしょう。

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by kyougen-kigyo | 2014-10-11 10:00 | 考察編

鎌倉~宇都宮

文治5年7月19日巳の刻、頼朝、奥州泰衡征伐のため鎌倉を発向。この時、梶原景時の言により、平家方として囚人になっていた城四郎長茂が赦免され、軍に加わっています。自分の旗を差すことも許された長茂は朋輩に「この旗を見れば逃亡した郎従が集まってくるはず」と語っており、実際、9日後には長茂の手勢は200余人となって頼朝を驚かせたとあります。この人、寿永元年(1182)10月9日に木曽義仲に攻められて敗走した記述がありますが、いつ囚人になったのかは不明。しかし旗を見て集まってきてくれる郎従たちがいたということは義経よりは人望あったのでしょうか。

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by kyougen-kigyo | 2014-10-04 11:40 | 考察編


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