奥州追討の戦後処理

吾妻鏡は文治5年9月9日まで読了でした。10日は、鎌倉では鶴岡末社熱田社の祭り。奥州では戦後処理。中尊寺経蔵別当が、合戦で寺領の土民が逐電してしまったから安堵の旨仰せ下してほしいと訴えてきています。翌日も平泉の寺々の僧たちが寺領安堵を求めてきており、いずれも寺の要求が通っています。
11日、陣岡を出立して厨河へ。12日、厨河では、この郡を拝領する予定の工藤行光が盃酒椀飯を用意しています。13日、今回の騒動によって逃げてしまった庶民を呼び寄せて本所に戻るよう言い含め、宿老には綿衣一領と馬一匹を下賜。また、由利八郎は恩免、ただし兵具は許されず。
14日、頼朝が奥羽両国の土地に関わる書類を求めますが、平泉館が炎上した時に焼失したとのこと。古老に尋ねると奥州の住人豊前介実俊と弟の橘藤五実昌が故実を存じているということで召し出して子細を問うたところ、兄弟は覚えていた両国の絵図などを注進。余目三所を漏らすのみでほぼ完璧だったので、感心した頼朝は即、二人を召し使うことに決定。
15日、樋爪俊衡入道と弟の季衡が子息たちを連れて降人として厨河へ。齢六十の俊衡を憐れんだ頼朝、彼を八田知家に預けます。知家が宿所に連れて帰ると、俊衡はひたすら法華経読誦のほかしゃべらない。知家は仏法を崇敬する人だったので非常に喜んで翌日、このことを頼朝に伝えると、頼朝も法華経を尊んでいたので俊衡を罪人とはせず本所を安堵。ただし、18日の京都への消息を見ると弟と子息たちは釈放されなかったようです。
17日、清衡以下の藤原三代が造立した堂舎について、平泉の源忠已講・心蓮大法師らが詳細を書いて献じたので、寺領は先例に任せて寄付し、地頭等の乱妨を禁止する旨を一紙に書いて圓隆寺南大門に貼り出しました。17日条には以降、中尊寺・毛越寺・無量光院・鎮守・年中恒例法会の事・一年中問答講の事・寺に隣接する秀衡の館の事・高屋の事、と寺院周辺の詳細が記されています。
18日、秀衡の四男高衡が降人となる。この日、残党がほぼ捕らえられたとして京都に手紙を送っています。捕虜を鎌倉に連行するつもりだが京都に連れて行った方がいいかどうかのお伺い、及び宣旨を待たずに出陣したことへの謝罪。
19日、厨河柵を出立、平泉へ戻る。
20日、奥州羽州の事につき論功行賞。千葉常胤が最初に恩賞を拝領するのが定例だったようで、これはやはり治承4年の挙兵の時に即座に駆けつけて鎌倉入りを進言したことによるのでしょう。土地を貰った人、旗を貰った人など様々ですが、葛岡郡の「狭少之地」を賜った畠山重忠は、皆が御恩に預かったのは抜け駆けを止めずに他人に功をたてさせた重忠のおかげだぞ、と傍輩につぶやいております。
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by kyougen-kigyo | 2015-07-26 10:20 | 考察編


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