泰衡追討の院宣

文治5年9月7日。宇佐美實政が生捕った泰衡の郎従由利八郎を連れて陣岡へ参上。ここで天野右馬允則景と相論になり、梶原景時が由利八郎を怒らせた話はだいぶ前に書きました(http://jinjitsu.exblog.jp/21805418/)。相論は實政の勝ち。由利八郎の態度を聞いて会ってみたいと思った頼朝、由利八郎に「泰衡は河田次郎一人のために誅されてしまった、2か国を管領して17万騎の貫主でありながら20日の内に一族滅亡したのは言うに足りないことだ」と言うと由利八郎に左馬頭殿は海道15か国を管領しながら1日も支えず零落して数万騎の主であったのに長田庄司に誅せられたのだからその甲乙は如何に、と言い返されてしまいます。それは当然言われるだろうなぁ、と思うのですが。由利八郎は畠山重忠預かりになりました。

8日、安達新三郎が合戦の次第を帥中納言に報告するために飛脚として上洛。
9日、鶴岡八幡宮臨時祭。流鏑馬など通常通り執行されましたが頼朝はまだ蜂杜に逗留中。高水寺の僧侶たち16人が、御家人の僕従が寺に乱入して金堂の壁板13枚をはがして持って行ったと訴えてきたので驚いた頼朝、景時に究明させたところ宇佐美實政の僕従の所為と判明したので、訴えてきた衆徒の前で刑を加えるようにということで…その刑罰がなかなかに恐ろしい。「令切件犯人之左右手於板面以釘令打付其手訖」当時としては普通なのかもしれませんが。頼朝はさらに寺の興隆のため所望があるかどうか聞きますが、僧侶たちは訴えが即座に裁断された上は所望なし、と寺に帰っていきました。頼朝はその他の藤原氏が建立した堂塔についても僧侶は罪科にはせず仏閣の数に応じて灯油田をあてることを表明しています。信仰心というより寺院勢力を敵に回すと面倒というのもあるでしょう。

この日の晩、京都の一条能保からの使者が陣岡に到着、7月19日付の泰衡追討の院宣を持参。使者の言によると24日に奉行蔵人大輔が帥中納言に送り、26日に帥中納言から一条能保に送られて28日に出京とのこと。それなら8月中に届きそうなものです。陣が移動しているから到着が遅れた可能性もありますが、7月19日といえば頼朝が鎌倉を出立した日ですから、後出ししながらその日付に合わせて院宣を書いたのでは。なにやら現代のお役所の書類と同じような感覚ですが。
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by kyougen-kigyo | 2015-06-15 08:46 | 考察編


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