平泉~藤原泰衡滅亡

かなりサボってます。今月から少し時間ができそうなので頑張って吾妻鏡読みます。

さて、文治5(1189)年8月21日、頼朝の軍は平泉へ向けて進軍。泰衡は館に火を放って逃亡します。22日の申の刻に頼朝が到着した時には泰衡の平泉館はすっかり焼けて無人となり、ただ坤の角に一宇の倉が焼け残っていた、と吾妻鏡にはあります。葛西清重と小栗重成にその倉を開けさせてみたところ、沈や紫檀で作られた厨子が数脚、その中には牛玉、犀角、象牙の笛、水牛角、紺瑠璃の笏、金の沓や玉幡・華鬘、蜀江錦の直垂、縫わずの帷、金造りの鶴、銀造りの猫、瑠璃の灯爐、南廷百(銀のことらしいですが「各盛金器」とあります)、等々、珍しい宝物ばかり。隅っこに残っていた倉一つでこれですから平泉館が焼けてなかったらどれだけのものが残っていたか。象牙の笛と縫わずの帷は葛西清重に、玉幡や華鬘は小栗重成が氏寺の荘厳に使いたいという望みにより与えられました。「銀造猫」は頼朝も持ってましたっけ。西行への餞別になりましたが。西行は文治2年に頼朝と会った後、その足で奥州へ東大寺勧進に行っていますから、頼朝からもらった銀の猫、実はその辺の子供にあげたんじゃなくて奥州まで持って行って勧進の御礼に秀衡の所に置いてきた可能性もなくはない?




23日、京都へ飛脚を発し、合戦を遂げて平泉へ到着して引き続き逃げた泰衡を追うことを報告。やっとここで京都が出てきます。宣旨も院宣も無しに奥州追討を強行したわけですが、ここまで京都から何も言ってきている様子はありませんし、玉葉にも奥州の事態はまったく触れられていません。見て見ぬふり状態。

25日、千葉胤頼を衣河館に遣わしたところ前民部少輔基成父子が降人となる。

26日、日の出の頃、疋夫一人が御旅館の辺に現れ一つの封状を投げ入れて逐電。この封書を見ると表書きに「進上鎌倉殿侍所、泰衡敬白」云々。中には「伊予国司(=義顕=義経)については父が扶持したことで泰衡は関知しない、父が亡くなった後、頼朝の命を受けて誅したのだからこれは勲功である、しかるに無罪であるのに征伐されるのは何故か、免除を蒙り御家人になりたい、そうでなければ死罪を免じて遠流にしてほしい、御返事は比内郡辺に落としておいてください」、というような内容です。もちろん頼朝側はそれを受け入れる気は毛頭無いので、比内郡内に落としておくようにと言っている以上は比内郡にいるはずということで捜索続行。

9月2日、頼朝、平泉を出て岩井郡厨河の辺りに赴く。これは泰衡捜索のためでもありますが、祖父将軍(頼義)が厨河で安倍貞任の首を得た佳例によって、泰衡の首を得ようと思ったからであると書かれています。

3日、泰衡、更に逃れて「夷狄島」目指して糠部郡に赴く。「夷狄島」って北海道のことでしょうか?交易していたでしょうから何かつてがあったのかもしれませんね。ところが数代の郎従として恃んでいた河田次郎が年来の旧好を変じて泰衡の首をとりました。泰衡、享年35歳。

4日、頼朝、志波郡に到着。泰衡と昵懇の俊衡法師がこれに驚いて比爪館を焼いて逐電、よって追討のため三浦一族が遣わされました。頼朝は陣岡蜂杜に陣取ったところ、北陸道の追討使である比企能員・宇佐美實政らが到着。軍士は二十八万四千騎となったとあります。

6日、河田次郎が主人泰衡の首を陣岡へ持参。例によって梶原景時がこれを取り次ぎ、和田義盛・畠山重忠が首実検した上で、囚人となっていた赤田次郎に見せたところ泰衡の首に間違いなしということになり、首は義盛が預かります。また、景時を通じて「汝の所為は功あるに似ているが譜代の恩を忘れ主人の首を梟したことは八逆の罪であり、身の暇(=死罪)を与える」と言って小山朝光に預け斬罪。このパターン、何回目でしょう。
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by kyougen-kigyo | 2015-06-01 19:25 | 考察編


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