多賀城~玉造

文治5年8月13日、北陸道を進軍していた比企能員・宇佐美實政ら、出羽の国に入って泰衡郎従の田河大郎行文、秋田三郎致文らを梟首。頼朝、多賀国府へ。

14日、泰衡が玉造郡にいるという風聞があり、また国府中山上物見岡に陣取っているという報告もあり、迷った末に主力は黒河(黒川郡)を経て玉造へ直行、物見岡へは小山朝政・宗政・朝光、下河辺行平らを派遣。物見岡では確かに陣はあったのですが大将軍はすでに逐電、幕だけが残されており、4、50人の郎従がそこに留まっていましたが全員が梟首あるいは生捕りになりました。物見岡を制した後、朝政が大道に出て主力と合流するべきだろうか、というと行平が「玉造郡合戦者、可為継子(事)歟、早追可参彼所者」と答えています。私は基本的には吉川本『吾妻鏡』(国書刊行会。国立国会図書館のデジタルコレクションで全文公開されているので便利)を使っています。この「継子」の部分、わからなかったので『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)と岩波の読み下し版『吾妻鏡』の助けを借りようと思いましたが解釈が分かれているようで…

『現代語訳吾妻鏡』では「継子」を地名と見て、「継子で合流しよう」というニュアンス。注釈には宮城県石巻市に継子前の字があるが未詳、と書かれています。岩波文庫版『吾妻鏡』では「子」ではなく「事」を採用して「継の事たる可きか」、つまり玉造郡の合戦は物見岡に続く合戦だから早く行こう、という意味でしょうか?
両書、全然違う解釈。私にはどちらとも判断付かないのですが、ただ、地名の「継子前」説をとると、この後の進軍経路がちょっとおかしくなるような気がします。20日の卯の刻に、頼朝軍は泰衡の「多加波波城」を囲んでいます(泰衡は逃亡済み)。「多加波波城」は『現代語訳吾妻鑑』では「たかばば」と振り仮名を振っているものの、所在地未詳、一説に宮城県大崎市岩出山字葛岡、と注釈があります。多加波波城を取った後、葛岡郡に出て平泉に赴く、と書かれていますから、多加波波城がどこであったにせよ多賀城からは内陸方面に向かったわけです。ところが継子前は石巻市ですからだいぶ海側。14日条の「経黒河」という経路からもちょっと逸れてしまいます。だから注釈でも「未詳」の一言が付いているのでしょう。現代の字・継子前は関係なしにどこかに「継子」という地名があったのかもしれませんが。研究し尽くされていそうな書物でもまだまだ分からないことは多そうです。

さて、多加波波城の奥州勢は合戦するまでもなく投降。20日の夜、頼朝は先陣の軍士らのうち、小山・三浦・和田・畠山・武蔵国党の者たちに今後の合戦における注意事項を書いた書状を遣わしています。曰く、平泉で泰衡が立て籠もったら僅か千騎、二千騎で馳せ向かってはならない、二万の軍兵を調えて競い至るべし、すでに敗北した敵であるから味方に一人も害が無いように。ここまでは関東勢、かなり突っ走って抜け駆けしたい放題という感じでしたが、もう大勢が決したのだから被害は少なくするように釘を刺された形です。
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by kyougen-kigyo | 2015-04-05 20:38 | 考察編


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