阿津賀志山越え

11月から吾妻鏡の記事あげてませんでした…いよいよ阿津賀志山を越えるところ。
文治5年8月9日の夜、明朝に阿津賀志山を越えて合戦を遂げることが決定。ところが三浦義村、葛西清重、工藤行光、工藤祐光、狩野親光、藤沢清近、河村千鶴丸の7人が抜け駆けしようと先陣である畠山重忠の陣をこっそり通過。ちなみに千鶴丸は13歳と注記あり。これに気付いた重忠の郎従の成清が「面目ある先陣なんだから抜け駆けは止めるべきだ」と重忠を諫めますが、重忠曰く「すでに先陣を承っている以上、重忠より先に合戦する者はみな重忠の勲功とすべきであり、かつ先に行きたがっている連中を妨げるのは武略の本意ではなく、また自分が恩賞を欲しがっているように見えるから」と抜け駆けの7人を止めることはしません。



7騎は山を越えて木戸口に辿り着き、各々名乗りを上げて合戦開始。「終夜越峰嶺」とあるし、本陣が木戸口に着くのは卯の刻なので、抜け駆けグループが木戸口に着いたのは10日の未明くらいでしょうか。「六郡第一強力者」という泰衡の郎従伴藤八以下の強兵が応戦、狩野親光が落命しています。伴藤八と組み合って討ち取ったのは先駆けの工藤行光。行光が更に進もうとすると2騎が組み合っている、名を問うと藤沢次郎清近というので加勢して敵を討ち、清近は感謝のあまり息子を行光の娘婿にすることを約束。次に葛西清重と千鶴丸が数人の敵を討ち取っています。三浦義村と工藤祐光についてはどのように合戦したのか出てきませんね。
10日の卯の刻には頼朝の本陣も阿津賀志山を越え、大軍が木戸口を攻めたけれども国衡は容易くは破れず。ここに去る夜、小山朝光・宇都宮朝綱郎従の紀権守・波賀次郎大夫以下7人が安藤次という人物を山の案内者としてひそかに伊達郡藤田宿から会津の方角、土湯之嵩・鳥取越などを抜けて大木戸の上、国衡の後陣の山に登り奇襲を仕掛けたために城中大騒動となり、ようやく阿津賀志山が落ちることになります。
ところで、この奇襲の道筋「自伊達郡藤田宿向会津之方、越于土湯之嵩、鳥取越等」ですが、藤田宿は頼朝の宿館があった所だし国見町に鳥取という地名もあるのでこの2つはわかる。土湯って今の土湯温泉がある所?だとするとかなり変。藤田宿から「会津之方」を引き合いに出すのもちょっと遠すぎる気がしますし。例によっての吾妻鏡の編纂間違いでしょうか。それとも他に土湯という地名があったのか。
ともかく朝光らの奇襲によって国衡は敗走。霧が出ており道が滑りやすくなっていたため国衡も郎従等も逃げた者が多かった。山の朝方の霧と、その湿気によって地面が濡れて滑りやすくなるのは登山してるのでよくわかります。泰衡も敗報を聞いて逃亡。追撃する頼朝軍の先陣は重忠を追い抜いた和田義盛。柴田郡大高宮辺り(現・大河原町、阿津賀志山から直線距離で15キロくらいでしょうか?)で国衡に追い付いて得意の強弓で国衡の左腕に傷を負わせますが、二の矢を放つ前に重忠の大軍が突っ込んできたので驚いた国衡、うっかり深田に入ってしまい動きが取れず大串重親に討ち取られてしまいました。
この日、鎌倉では奥州追討の祈請として北条政子が御所の女房数人に鶴岡で百度詣をさせています。
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by kyougen-kigyo | 2015-02-08 10:10 | 考察編


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