阿津賀志山の戦い

なかなか定期的に書くというのは難しいものです。毎日ブログ更新している人はすごいと思う。

さて、前々回に書いたような地勢を踏まえた上で吾妻鏡8月7日条を読むと。夜半に雷鳴がして御旅館に霹靂あり。いきなり宿所が落雷に見舞われてます。泰衡は頼朝が奥州に向かっていると聞いてすでに阿津賀志山に要害を固めていた。五丈の堀に阿武隈川の流れをひき入れ、異母兄の西木戸太郎国衡を大将軍として、金剛別当秀綱、その子下須房太郎秀方以下二万騎が山内三十里の間に満ちたと書いてあります。鎌倉時代の1里は今の度量衡の約3.9㎞より小さいかと思います(この辺、不勉強なので不確かですが)。が、それにしたって厚樫山周辺、30里もないでしょ。まぁ、吾妻鏡の執筆者は厚樫山なんて見たこともないんでしょうから…「何里が程に満ち満ちたり」という表現は軍記物の定番ですね。



泰衡はさらに、苅田郡に城郭を構え、名取広瀬の両河川から水を引き、自身は国分原(現・仙台市周辺)に陣取り、鞭楯、栗原、三迫、黒岩口、一野辺に軍勢を置いて出羽国を警護した、とのこと。不明な地名もありますが、阿津賀志山防塁を突破された場合に備えて山の狭隘地を抜けた所に城郭・仙台平野と栗原郡の平野部にも軍勢を配置して本拠地の平泉の防衛に当たった、ということでしょう。わかりやすい配置ではある。頼朝軍の方もわかりやすく力押し。7日の夜、頼朝は明暁攻撃開始の由を内々に伝達。そこで畠山重忠は連れてきた「疋夫八十人」つまり鎌倉出陣のときに一番先頭にいた人々に、用意の鋤鍬で土石を運ばせて堀を埋め、人馬が通行できるようにしました。この行為、吾妻鏡では「思慮已通神歟」と絶賛されているのですが…事前に想定して鋤鍬を用意していた「思慮」を褒めているのかと思いますが、若干、重忠さん持ち上げ過ぎ。頼朝の近習である小山朝光も兄・朝政の郎従らを連れて阿津賀志山の近くへ。兄の郎従ということは自分の郎従はいなかったのか少なかったのか。

8日、金剛別当秀綱が数千騎で阿津賀志山の前に布陣。これに対して卯の刻、畠山重忠・小山朝光・加藤景廉・工藤行光・同助光らが矢合わせ開始。巳の刻に秀綱退却、大木戸まで帰って合戦敗北の由を大将軍の国衡に告げる。また、泰衡の郎従佐藤庄司、この人は義経に従っていた佐藤兄弟の父親だそうですが、叔父の河辺太郎高綱らと共に「石那坂の上」に陣取ったと書いてあります。阿津賀志山からけっこう南下した福島市平石に地名があり、一応そこが比定されていますが、阿津賀志山防塁から遠すぎる気がします。頼朝軍の背後を取ろうとしたと見えなくもないけれども、地図上で眺めている限りではそこを取る意味はあまり無いような…場所が違うのかもしれません。
石那坂の陣に対しては、常陸入道念西の息子たちが甲冑を秣の中に潜ませて近づき伊達郡沢原の辺りから矢石を発し、奮戦の後、佐藤庄司以下18人を討ち取って阿津賀志山上の経岡に梟したとあります。現代語訳吾妻鏡では「伊達郡沢原」の注に「陸奥国伊達郡」としか書いてない、ということは正確な場所がわかっていないということか。沢原の場所がわかれば石那坂の場所も見当つくかもしれません。

その頃鎌倉では、頼朝の依頼を受けた専光房という僧侶が大倉御所の後山に観音堂を建て始めています。
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by kyougen-kigyo | 2014-11-23 11:26 | 考察編


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