鎌倉~宇都宮

文治5年7月19日巳の刻、頼朝、奥州泰衡征伐のため鎌倉を発向。この時、梶原景時の言により、平家方として囚人になっていた城四郎長茂が赦免され、軍に加わっています。自分の旗を差すことも許された長茂は朋輩に「この旗を見れば逃亡した郎従が集まってくるはず」と語っており、実際、9日後には長茂の手勢は200余人となって頼朝を驚かせたとあります。この人、寿永元年(1182)10月9日に木曽義仲に攻められて敗走した記述がありますが、いつ囚人になったのかは不明。しかし旗を見て集まってきてくれる郎従たちがいたということは義経よりは人望あったのでしょうか。



当日の様子、まずそれぞれに「征箭三腰」を担った者50人と、鋤鍬を持った者30人。つまり武器輸送隊と工兵隊が先行。その後に先陣の畠山重忠と、長野重清ら5騎。その次に頼朝。その他、出陣した者たちの名前が列記されています。頼朝の弟の範頼の名前も見えますし、平賀氏、加々美氏、北条氏、三浦氏、和田氏、等々144名。ずっと見ていくと、曽我助信とかいますね、曽我兄弟の継父。近くに伊東氏や、工藤祐経もいます。名簿に知ってる名前を見つけるとなんとなく、知り合いを見つけたような気分になってしまう…

7月25日、下野国古多橋駅に到着。ここまでどういう経路をたどったのかは記されていません。到着後、まず宇都宮に奉幣。宇都宮というと今はすっかり地名ですが、「宮」ですからこれだけで神社名にもなっています。征伐が無事終わったら捕虜を1人神職にすると立願して奉幣の後、御宿へ。小山政光が食事を用意。出陣中の食事ってどういう役割分担だったのでしょうか、他の宿での食事の記述は出てこないのでわかりません。そもそも今のように民宿があるわけではなく御家人・豪族らの屋敷を借りて宿泊、もしくは野営でしょうから、この時の御宿は下野の大物である小山氏に関係する屋敷だったと考えられなくもない。であれば小山政光が食事を献じるのは当然のことになります。その他大勢の人々は自炊でしょうねぇ。ちなみに小山市にこんなマスコットキャラクターがいました(栃木県のHPへリンク)。
http://www.pref.tochigi.lg.jp/a03/town/shinkou/shinkou/tochichara/masamitu.html
政光くん…戦国時代キャラは多いけれども鎌倉時代の人物をモデルにしたのはあまりいないような気がします、今度調べてみよう。

さて、この食事の席に熊谷直実の息子の直家がいて、頼朝が彼は「本朝無双の勇士」であると政光に紹介したところ、政光が笑って「郎従がいないから自分で戦わなきゃいけないんだね、じゃあ今度は自分で合戦して無双と仰っていただけるようにしなさい」と息子たちに言って直家をからかっている場面があります(原文、「政光頗咲、為君棄命之條勇士之所志也、争限直家哉、但如此輩者、依無顧盻郎従、直励勲功揚其号歟、如政光者、只遣郎従等抽忠許也、所詮於今度者、自遂合戦、可蒙無双之御旨之由、下知于子息朝政宗政朝光幷猶子頼綱等、二品入興給云々、」)。小山氏は大物なので自分自身が戦うのではなく郎従を動かして戦うわけで。こういう軽口から喧嘩になることはよくありますが、頼朝が面白がったからか直家が父と違っておとなしい性格だったのか政光の人徳か、喧嘩には発展しなかったようです。
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by kyougen-kigyo | 2014-10-04 11:40 | 考察編


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