義経追討

文治5年(1189)2月25日、鎌倉から奥州へ泰衡の形勢を伺わせるための使者を派遣。翌日、入れ替わるように去年奥州へ行った官使が上洛途中で鎌倉に逗留した由。

奥州とは関係ありませんが、2月28日に彗星が出現したという記事が出てきます。彗星のような天変は凶兆とされることが多いので、京都側では天文奏など提出されていますが、吾妻鏡では頼朝が寝所から出てご覧になった、という記述のみ。その時に随従したのが三浦十郎義連、小山七郎朝光、梶原源太景季、八田太郎朝重。「夜中出御之儀常如此、是皆近仕也」とそっちの方が重要視されているような。鎌倉時代も最初の頃だとあまり吉凶とかには興味がなさそう。実朝の時代になると京都と同じような占い騒ぎが起きるようになりますが。



3月20日、一条能保からの使者参着。その手紙に、去る九日、奥州から請文到来、義顕(義経)を差し出す由が記載されていたとのこと。

4月22日に頼朝に下された院の御教書。「奥州追討事、為朝大事之間、且被仰合人々、且其間御祈事なんと沙汰間、于今遅々、」追討の宣旨をなかなか出さないことについての弁明です。「且又発向、一定何比乎、成儲宣旨、可被待重申状歟、」出兵するなら宣旨を待つように、という念押し。続けて伊勢神宮及び東大寺の工事中であるから役夫工米に支障をきたさないように、という注意。玉葉の閏四月条に似たような文章がありますが、こちらには「伊勢遷宮、幷造東大寺者、我朝第一之大事也、而赴征伐之間、諸国定不静歟、然者可成彼両事之妨、」と奥州追討が伊勢遷宮・東大寺造営の妨げとなることをより危惧している様子があります。
そして、閏4月30日。ついに泰衡が義経を襲います。吾妻鏡によれば義経は藤原基成という人物の衣河の館におり、泰衡は数百騎を従えて合戦。義経の家人は悉く敗れ、義経は持仏堂に入ってまず妻(22歳)と娘(4歳)を殺してから自殺した、とあります。行年31歳。
5月22日、奥州からの飛脚がこの事件を鎌倉へ報告、そこですぐに京都へも飛脚が立ちます。玉葉の5月29日条に出てくる「今日、能保朝臣告送云、九郎為泰衡被誅滅了云々」の記事がこの飛脚の京都到着を意味していると思われます。「天下之悦何事如之哉、実仏神之助也、抑又頼朝卿之運也、非言語之所及、」というのが兼実の感想。京都の人々はこれで奥州の件は終わった、と思ったのでしょう。

鎌倉ではこの頃、鶴岡八幡宮の御塔供養の儀式が準備中。義経が討たれたことにより頼朝が弟の服喪期間となり延期する、と京都に伝えられますが、供養の導師として6月3日には中納言法橋観性という天台僧が鎌倉に参着。6日には院からも御馬が下されているので「御軽服三十余日は過ぎている」という理由で予定通り6月9日に執行されました。服喪についてはこの時代、身分や親等によって非常に細かく定められているのであまり詳しくは把握していません。『令集解』の喪葬令(国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949630/234)で確認すると兄弟・姉妹・夫の父母・嫡子は3ヶ月なので「三十余日過ぎているからいい」という理屈はよくわかりませんが、異父兄弟姉妹は1ヶ月、という決まりもあり、異母兄弟ということで軽くしたのかもしれません。

6月13日、泰衡の使者新田冠者高平が義経の首を持参。鶴岡の供養の直後でもあり祭りもあるので鎌倉には入れず、腰越浦で和田義盛と梶原景時が首実検を行いました。閏月があったのでこの6月は今の暦で8月頃、暑いさなかに1ヶ月も経った首で本人確認できたのか、という疑義が後世、義経生存説がまことしやかに語られる一因です。この後、吾妻鏡は義経の首をどうしたかという話もなく奥州追討に話題が移っていきます。
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by kyougen-kigyo | 2014-07-20 20:55 | 考察編


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