奥州と貴海島(つづき)

文治4年(1188)の上半期は奥州関係と貴海島関係が同時並行で進んでいます。

3月5日、鎮西から宇都宮信房の書状到来。貴賀井島の海路を図にして献覧。貴海島だったり貴賀井島だったりするので統一しようと思ったのですが、両者使用頻度同じくらいなんですね…頻出語句ではないのでまぁ、どっちでも良いか。みんなから行くのは難儀だと言われて思いとどまっていた頼朝、信房の絵図を見てそんなに大変じゃないかも?と計画再開。難儀だと言っていた人々は鎮西に行ったことがない人々がほとんどだったでしょうから、イメージと「難儀」の尺度が違っていたと思われます。

4月9日、奥州の泰衡に対して義経を捕らえるよう命じる宣旨と院庁下文を帯した使者が鎌倉に到着。宣旨に曰く「義経無所容身、逃下奥州、擎先日之毀符(以前に出された頼朝追討の宣旨を指す)、称当時之詔命、相語辺民欲令野戦云々、件符者、縡不出従叡襟、自由之結構、武威之所致也、」・・・頼朝追討の符は叡慮から出たものではなく撤回したものだと改めて強調していますが、綸言汗の如し。一度出した宣旨を無かったことにするのは難しい。義経としては使えるものは使うでしょうから「毀破旧符」を有効な宣旨として人集めに利用するのは当然だったでしょう。

5月17日、天野遠景らが貴賀井島に渡って合戦を遂げ、平定したとの言上あり。誰と合戦したのかは不明ですが、とりあえずこれで西の方の問題は収まった形です。

6月11日、泰衡から京へ献上する馬・金・絹などが大磯に到着。三浦義澄がこれを召し留めるべきかと言いますが、頼朝は公物だから留めることはできないと回答。

奥州情勢が緊迫する中ですが、7月10日、万寿公(後の頼家)の鎧の着初め式が行われています。寿永元年(1182)生まれですから7歳のお祝いというところでしょうか。鎌倉は後継者もいて安泰である、ということを示す意味もあったと思います。
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by kyougen-kigyo | 2014-05-25 18:08 | 考察編


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