奥州と貴海島

文治3年(1187)、秀衡入道が義経を扶持して反逆を起こしている由を頼朝が訴えるので、院庁下文が陸奥の国に下され、その時に関東からも雑色が遣わされていたのが9月4日に帰参。秀衡は異心は無いと言っているけれども雑色が言うには既に用意(反逆の)があるようだ、ということで、その雑色を京都へ行かせて奥州の形勢を言上。
この翌月、秀衡は死去。義経を大将軍として国務を取らせるようにと跡継ぎの泰衡に遺言したと、吾妻鏡には記されており、玉葉の文治4年正月9日条にも噂として「以義顕(義経)為主君、両人(秀衡の息子2名)可給仕之由有遺言」とあります。事実ならば秀衡は相当、義経に肩入れしていたわけですが、奥州の統治者の跡継ぎである息子たちとしては、親からそう言われて、どうだったんでしょう。

一方、頼朝が奥州と同じくらいに執着していたらしいのが、奥州とは正反対にある貴海島。これは今の喜界島ではなく鹿児島県三島村の硫黄島ではないかということです。この島に義経に同意した輩が隠れているのではないかという疑いがあったので(というのは表向きの理由だと思いますが)、9月22日に宇都宮信房と天野遠景が鎮西へ派遣されました。
調査報告の書状が遠景から届いたという記事が翌年の2月21日にあります。郎従らを島に渡らせ形勢を調べた結果、追捕は子細ないけれども、鎮西の御家人が一揆(この場合の「一揆」は一致、同意、結束、というような意味)しないので重ねて御教書を下してほしい。信房は自分で渡海しようとしていたのを遠景が止めたので親類を遣わした。という内容。
貴海島追捕の噂は京都にも届いていて、計画を知った九条兼実から、行くのは大変で軍士の煩いとなるだけだからだからやめた方がいいと真っ当な意見を言われた頼朝、少し延期。玉葉の方に何か記事があるかと思ったのですが、ざっと見た感じでは有りませんでした。兼実のことだから、もっと丁寧に読めば書いてあるのかもしれませんが。最近史料の読み込みをさぼっているもので。

そろそろ鎌倉にも行きたくなってきました。文学館のバラ園が見ごろだろうな・・・
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by kyougen-kigyo | 2014-05-18 21:27 | 考察編


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