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人物評③ 梶原景時 つづき

悪い噂を頼朝に吹き込んでいる印象になってしまった景時ですが、実は良い方の報告もしているのです。文治4年6月5日、大雨によって戌刻に洪水が起き、勝長寿院前の橋が落ちました。そのとき御堂の宿直をしていた飯田次郎という人、泳ぎが得意だったようで水に入って二町ばかり流された橋を留めました。通りかかった景時がこの様子を目撃、すぐに御所に戻って頼朝に報告したので、飯田は御馬を賜りました。良きにつけ悪しきにつけ、御家人たちの言動を報告するのが景時の役目。特に仲の良い人がいた様子もありませんから、ある意味、公平性という点で適役だったのかもしれません。



景時の性格がわかりやすいのが文治5年9月7日条。奥州で捕虜になった由利八郎をめぐって、宇佐美実政と天野則景が各々、自分が生捕ったと主張したので、由利に直接聞くことになり、最初に景時が尋問。ところが景時の態度が居丈高な文切り口上だったので気を悪くした由利八郎、答えません。景時が頼朝に「この男は悪口しか言わない」と報告したところ、頼朝は景時が無礼な態度を取ったのだろうといって尋問者を畠山重忠に変更。重忠は礼をもって丁重に聞いたので由利も納得して返答した、という話。ここでも景時と重忠が対置されるかたちになっています。こういう上から目線というか相手への気遣いができない所も嫌われる一因。頼朝も景時の性質をよくわかっていたようです。

一方で、和歌をたしなむ一面も。文治5年12月28日、奥州平泉無量光院の供僧が1人、泰衡の跡を慕い関東に反するという風聞によって捕らえられたので、景時に子細を問わせたところ、件の僧は、無量光院は清衡已下四代にわたって帰依を受けており、泰衡誅戮の後、「むかしにも あらすなるよのしるしには こよひの月もくもりぬるかな」という歌を詠んだけれども、懐旧の念によるもので異心は無い、との答え。「景時頗褒美之、則達此由二品、還有御感」と僧は許された上に褒賞も加えられました。

建久元年に頼朝が上京する途次の10月18日の記事では、
  於橋本駅遊女等群参、有繁多贈物云々、先之有御連歌、
    橋もとの君にはなにかわたすへき
       たゝそまかはのくれてすきはや  平景時
とあります。「御連歌」とあるので頼朝が読んだ上の句に景時が下の句を付けた、ということのようです。こういう遊びができる人は御家人の中には少ないでしょう。

景時の、人に対して無礼な一面と、和歌などを詠む一面とを示すエピソードは他にもありますが、総合してみるに「仕事はうまくこなすし文学的な教養もあるけれども対人関係が下手で態度がでかいので敵を作りやすい人」。加えて「そんなことまで報告しなくても…」ということまで上司に告げ口してしまうとくれば、まぁ、嫌われます。頼朝に重宝されてた内は良いけれども、あちこちに敵を作った挙句に頼朝没後の正治元年10月27日、大勢の御家人が集まっての連署状で訴えられて翌年正月に討たれてしまいました。頼朝の時と同じように頼家に御家人たちの言動を報告してしまったのが不運でした。頼朝なら適当に捌いてくれたものを、頼家にその器量はない。そこが見抜けなかったのか、それまでの役目を変わらず続けようと思ったのか。興味深いのは、連署状を取り次いだのが文官筆頭の大江広元だったのですが、広元は連署状を頼家に見せることを躊躇したという点でして、文官とはさほど対立していなかったのではないかと思います。
by kyougen-kigyo | 2014-03-10 20:03 | 考察編


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by 柴

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