義経、奥州へ

今週も雪でしたね。先週と違って重たい雪だったので庭の木の直径5センチほどの枝が折れていました。

さて、文治3年(1187)2月。
ついに義経が畿内を離れて奥州へ。この行動が結果的に、頼朝に奥州藤原氏討伐の大義名分を与えてしまうことになります。

吾妻鏡の2月10日条に「前伊予守義顕、日来隠住所々、今度遁追捕使之害訖、遂経伊勢美濃等国赴奥州、是依恃陸奥守秀衡入道権勢也、相具妻室男女、皆仮姿於山臥幷児童等云々」。前年末に義行から義顕に再改名されています。妻室というのは正妻・河越重頼の娘であり、息子や娘も伴っています。それまで家族はどこに隠れていたんだか? 道程は伊勢、美濃を経て、とあります。この前、奈良に行った時に伊勢や鳥羽が意外と近いんだな、ということは感じていました(旅先を奈良にするか伊勢にするかで直前まで迷っていたもので気になったんです)。義経は南都をメインに転々としていたようですから、国境の山を東に越えて伊勢に出たのでしょう。そこからがよくわかりませんね。美濃へ出た、ということは船は使っていないということか。東海道は頼朝の直轄下ですから、なるべく避けたかったはずです。女子供が一緒ですからそれほど速くは進めなかったと思いますが、翌月5日には義経が陸奥の国にいて秀衡も歓待していることが確実になったため、鎌倉から「厳密可被召尋之旨」京都へ申し立てた由が出ています。

ところで、義経は何を目指し、何がしたかったのか。五位を貰って素直に喜んでいるところを見れば官位を高めたかったのはわかります。引っかかるのが静御前の存在なんです。感傷抜きで見た場合、「天下の名人」と称される白拍子を妾にする、という行動は、祇王、祇女、仏を寵愛した平清盛と似ています。人気のある白拍子を側に置くというのはひとつのステータスでもあります。義経が目指したのは、朝廷内で官位を高める清盛のような立身出世だったのではないか、と思うのです。であれば、官位を貰うなという頼朝の言は絶対に理解できないし、その在りようは朝廷を離れてはあり得ない。だからこそ追討の宣旨が出てもなお1年以上、危険な京都を離れようとしなかったのではないですか。自分で平氏を滅ぼしておきながら、それと同じ姿を目指してしまったのが義経。
しかし当時としてはそういう思考回路が常識的な立身の方法だったわけで、その点、義経の方が兄よりずっと常識人だったのではないかという気がします。頼朝の思考回路を理解して行動できたのは大江広元くらいだったんじゃないかな。
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by kyougen-kigyo | 2014-02-15 20:38 | 考察編


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