奥州藤原氏の献上品のこと

文治2(1186)年4月24日、陸奥の藤原秀衡から鎌倉へ、請文が到着。内容は、「貢馬貢金等、先可沙汰進鎌倉、可令伝進京都由載之」朝廷への貢馬貢金等はまず鎌倉へ送るので、京都へ伝進してほしいということ。これは頼朝から送った書状に対する返事で、最初の書状の内容は「御館者奥六郡主、予者東海道惣官也、尤可成魚水思也、但隔行程、無所于欲通信、又如貢馬貢金者為国土貢、予争不管領哉、自当年、早予可伝進、且所守勅定之趣也者」。上辺は仲良くしましょうよ…と言いつつ奥州藤原氏と朝廷の間の献上品ルートに介入して藤原氏を牽制し、朝廷への影響力を弱めようという意図は明確。
5月10日に早速、秀衡から貢物の馬3疋と長持3棹が鎌倉へ送られてきたので、京都へ進上。10月にも同様に、「陸奥国今年貢金四百五十両」が送られてきたので京都へ転送しています。
奥州藤原氏がこれだけ直接に出てくるのは吾妻鏡では初です。遡って養和2(1182)年に頼朝が江ノ島で藤原秀衡調伏祈願をしていますし、秀衡が義経を援助しているという風聞も流れてはいますが、具体的な姿は出てきていませんでした。
頼朝が書状を送ったのがいつなのか不明(吾妻鏡では「去比」としか書かれていません)なので、返書が来るまでにどのくらい時間がかかっているのかもわかりませんが、頼朝が秀衡の勢力を恐れたのと同様、秀衡の方でも頼朝の軍事力は脅威だったのでしょう。要求を断って東海道と北陸道を封鎖されたら朝廷との連絡が断絶してしまいますから、仕方なく承諾したものと思われます。

一方、6月28日に一条能保の飛脚から義経の娘婿・源有綱が大和国宇多郡で合戦の末自殺したとの報告があり、閏7月10日には同じく能保の飛脚が、義経の小舎人童・五郎丸を捉えたという書状をもたらします。五郎丸によれば義経は6月20日頃まで比叡山に隠れていた。また、義経という名前が三位中将・藤原良経と同じ読みだというので義行に改名されたことを告げています。ちなみにこの後、義行では「よく行く」と読めるから捕まらないのだ、ということになって「義顕」に改名されていますが、ややこしいので義経で通します。閏7月26日には五郎丸の白状に基づき天台座主に義経をかくまった僧を出すように要請しますが、逃げたとかまだ山内にいるとかはっきりしません。武士を遣わして探させるのはさすがにできなかったようで、天台座主以下に捜索を任せるという形で落ち着いています。
義経が朝敵にされたのが文治元年の11月ですから、案外長いこと都の近辺に潜伏しています。比叡山にしても吉野の大衆にしても一枚岩ではなく内輪揉めも始終やってますから、一山を挙げて義経を支援したのではなく、一部勢力が義経に同情的だったということだと思います。
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by kyougen-kigyo | 2013-12-28 21:15 | 考察編


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