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静御前のこと

文治2年(1186)3月1日、静が母親の磯禅師と共に鎌倉に到着。御家人の安達新三郎清経宅に逗留することになります。安達清経の家がどこにあったのかは不明。6日に義経について尋問があり、静の言によれば義経は吉野山の僧坊にいたところ大衆蜂起と聞こえてきたので山伏の姿で大峰に入った。静も慕って後を追おうとしたが大峰は女人禁制であると僧に叱られて京の方へ赴いた時、一緒にいた雑色が財宝を取って逐電してしまった。僧の名前は忘れた、と。結局、義経の所在は不明。
3月14日、行家・義経捜索の宣旨が京都から到着。この手の宣旨がしつこいくらい出されていますが、これは2月30日付けで熊野、金峰山、大和・河内・伊賀・伊勢・紀伊・阿波等の国司に向けて出されたもの。翌日の15日条に義経が伊勢神宮に参詣して金作りの太刀を奉納した、とありますし、4月20日には義経が洛中にいるらしいという噂もあり。どうやらまだ畿内近辺に潜伏中。

3月22日、静が義経の在所は知らないと言い切るので、懐妊しているから出産後に(京都へ)返すということに決定。ここで初めて静が義経の子を身ごもっていることが記述されています。



そして、吾妻鏡の中でも有名な、静が鶴岡八幡宮で舞うのが4月8日。静は固辞したのですが、名人と知られた白拍子、もうすぐ京都へ帰ってしまうのだからと政子が頻りに勧めたのだという話。現在の八幡宮には独立した舞殿がありますが、文治2年の頃はまだ本殿は階段の上ではありません。現在舞殿がある辺りに本殿があって周りに回廊が巡らされていたと思われます。静が舞ったのはその回廊。工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当。案外そんな芸もあったりする、この二人。祐経は後に曽我兄弟に討たれてしまいますが。
その場で歌われた「しづやしづ…」と「吉野山…」の歌声、芸の見事さに皆感動しますが、頼朝は義経を慕う歌を八幡宮宝前で歌ったということに機嫌を損じ、政子がとりなしたのは書くまでもないくらい有名になっていますね。政子、自分より弱い女性には非常に優しさを示す人なのです。自分の立場を危うくする可能性があると見ると非常に怖い人になりますが。感情の起伏が激しいというか振れ幅が大きいというか。

5月14日には静の宿所に工藤祐経や梶原景茂・千葉常秀ら若い世代の御家人たちが集まって酒宴。静の母の磯禅師、この人も白拍子なので、芸を披露したりしています。酔った勢いで梶原景茂が静に言い寄るということがあり、静は、義経は鎌倉殿の御連枝で自分はその妾である、本来なら対面することすらないのに、と落涙。白拍子というものの身分の低さ、遊女だったこと、が窺える場面です。

5月25日、一条能保らの飛脚が源行家の首を持参。行家は和泉国で見つかり合戦の末、討ち取られたとのこと。義経とは別行動だったようです。

5月27日、病気で勝長寿院に参籠していた頼朝の長女・大姫の希望により静が芸を施しました。大姫も結婚相手を父に殺された女性ですから、静と通じるものはあったでしょう。

6月7日、義経が南都にいるとの風聞。6月13日には義経の母の常盤御前と妹(父は常盤の再婚相手・藤原長成)が捕まっており、可召進関東歟、という問合せが京都から来ていますが、それに対する回答の記述はなく、どうなったのか不明。

閏7月29日、静、出産。女児ならば助かったのですが、男児だったために殺されてしまいます。憐れんだ政子が頼朝に許すように頼んでも叶わず。9月16日、静と磯禅師は帰洛。

ところで静の子の処置ですが、吾妻鏡には「今日仰安達新三郎、令棄由比浦」とあります。この部分を由比浦で海に沈めて殺した、と解釈する向きもあるのですが、私は違うと思うのです。由比浦は中世には共同墓地があった場所。共同墓地というと聞こえはいいですが実際には埋葬というより、言い方は悪いかもしれませんが棄て場というのが近い。その痕跡は由比ヶ浜中世集団墓地遺跡と呼ばれています。古代から中世の墓地というのは、、ちゃんと埋葬して五輪塔建てて供養できたのは富裕層や上流階級。その他庶民は京都なら化野や鳥辺野に持って行く。鎌倉にもいくつかそういう場所があって、由比浦もその一つだったと考えられます。所定の場所に持って行くならまだいいですが、その辺の道端に遺体が転がっていて不思議はないのが当時の都市の風景。摂関クラスの貴族の日記を読んでいても「今日は烏が人の手首落としていったから物忌み」「犬が赤子の頭を咥えてきたから物忌み」なんていう記述が普通に出てくるのです。だからこそ宗教文化があれだけ大きく展開したり、文学に無常というものが色濃く反映したりしたのでしょう。話が逸れていますが要するに、静が生んだ子は浜辺で水に沈められたのではなくて、方法はわからないけれども殺されて由比浦の墓地に捨てられた、と私は解釈しています。

もう一つ気になっているのが、この時期、正妻である河越重頼の娘はどこにいたのか?ということ。最後に義経と共に奥州に行ったことはわかっていますが、文治2年現在の所在が不明。吉野でも一緒だったのか、別の所に隠れていて後で合流したのか、…とにかく義経が奥州まで連れて行くと選んだのは静ではなく正妻だった。所詮は白拍子、妾は妾でしかなかったのか、とすれば平清盛が祇王・祇女・仏御前といった白拍子を寵愛したのと大して変わらず(これも白拍子側の行動が称賛されていますね)、義経と静の純愛物語的イメージは崩れます。静の本当の悲劇はそこにあったのではなかろうか。
by kyougen-kigyo | 2013-12-15 00:05 | 考察編


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by 柴

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