吾妻鏡。

重要なひと山を越えたのでちょっと気が抜けてますが、吾妻鏡はまだまだ序盤ですね。
義経追討、守護地頭の配置、兵糧米徴収、と朝廷に対して大きく攻勢に出た頼朝。文治元年(1185)12月6日には、行家・義経に同意した人々を罪科に申し行うべし、とリストアップした折紙を帥中納言・藤原経房に遣わします。その中でも特に時政が申し請けるように、と言われた8人の中に平知康の名前も。この人、平家物語で木曽義仲にからかわれてた鼓判官です。院への折紙は処罰についてだけではなく、朝廷の人事についても細かに口出ししています。頼朝追討議論の時に、結果的に関東寄りな発言になっていた九条兼実に内覧の宣旨を下すべきこと。大蔵卿を藤原宗頼にするべきこと(つまり現職の大蔵卿である高階泰経を解官すべし、ということ)。等々、朝廷内の人事刷新を提示。
さらに、九条兼実には別に書状を送り、諸国に地頭を置くことにした経緯を弁明したりしています。

いきなり書状を送られ内覧に推挙された兼実の方は関東に肩入れしているつもりは全くなかったようで、玉葉では12月27日に頼朝の書状が届いていますが、「如夢如幻、依為珍事、為後鑑続加之」と驚いて書状と折紙の全文(吾妻鏡に掲載のものと同じ)を写しています。そして経房を招いて書状と折紙を院に進じ、最近武士の言うことはなんでも施行されているけれどもいかがなものか、と固辞の意思表示。すでに摂政がいるのに別人に内覧宣下しては乱の元であるというその文章がまた先例に通じた兼実らしい、「醍醐帝者、雖我朝無双之聖代、以菅丞相事為失、是則其権分二之故也、鳥羽法皇者、末代之賢主也、而依寵賞凶悪之臣、顕万代之失、保元以後、天下乱逆、論其源非因仁平之両権哉…」長いので全文は載せませんが主旨のはっきりしたなかなかの名文だと思います。しかし結局、内覧宣下された上に氏の長者も拝命することに。兼実としては嬉しいはずですが複雑だったでしょう。
もう一つ、頼朝から兼実宛ての書状の中に「今度天下草創也」という言葉があります。天下の草創という大きな目的の朝廷側のパートナーとして兼実を選んだということ。頼朝は兼実のことを相当、高く買っていたようです。兼実側としては迷惑だったかもしれませんが…

一方、12月8日に静が吉野から京へ送られてきています。また、この頃、平氏の公達らの捜索が行われ多数が捕虜となります。小松内府重盛の子息・忠房、屋島内府宗盛の子息の童2名、越前三位通盛の子息1名、三位中将惟盛の子息・六代など。その多くが梟首されてしまいますが、六代御前の話は平家物語にもあるので有名ですね。この時は文覚上人預かりとなって助命されました。

義経の所在は不明のまま、文治元年は終わります。
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by kyougen-kigyo | 2013-11-17 13:28 | 考察編


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