頼朝追討の宣旨

勝長寿院の落慶供養があった文治元年(1185)10月から少し遡って5月11日、頼朝を従二位に叙すという知らせが鎌倉に届き、15日には義経が壇ノ浦で捕虜になった平氏の棟梁、平宗盛とその子・清宗を連れて酒匂宿に到着。明日鎌倉に入るという使者の言でしたが、北条時政らが宗盛・清宗の迎えに派遣され、義経は「鎌倉に参るべからず」と酒匂で止められてしまいます。翌日、宗盛父子は若宮大路を通って大倉御所の西の対へ。頼朝が宗盛と対面するのは翌月7日のことなのでしばらく間があきますが、この間に有名な「腰越状」が義経から大江広元に届けられています。腰越状、名文ではあるけれども義経が書いたものではなく偽書だろうと言われています。後世、長らく文章のお手本として使われるようになるのですから捏造した人の文章力が非常に高かったということですね…なぜ酒匂で止められてたはずなのに腰越なんだろう?




6月2日、平氏の人々に対する配流の官符が下される。平時忠は能登に配流と決まったのがこの時です。
6月7日、頼朝、宗盛と会う。ただし、直接言葉を交わした重衡の時と違って、二位に叙された者が朝敵の囚人と対面するのはよくないという大江広元の助言により、簾中から比企能員に言葉を取り次がせるという形式をとっています。宗盛の様子は「内府動坐、頗有諂諛之気、被報申之趣又不分明、只令救露命給者、遂出家求仏道之由云々」重衡の堂々とした態度と対置しようという意図があるものと思われますが、頻りに諂って言うことははっきりせず命乞いをする様子に「視る者指を弾く」と散々な書かれよう。
6月9日、義経は鎌倉に入れないまま、宗盛と清宗を連れて再び京へ出発。これまで鎌倉にいたと思われる重衡も同時に京へ送られます。宗盛父子は京都へ入る前に近江国篠原宿で斬首。重衡は寺を焼かれた南都の要求により奈良へ送られて、これも斬首。どうも斬首だの梟首だの物騒なブログになってしまっていますが鎌倉時代という時代背景上、しょうがないので御容赦を。

義経が酒匂から出発した直後の13日、義経に与えられていた平家没官領24箇所が全て没収されました。その理由として吾妻鏡に挙げられているのは、勲功を「偏為一身大功」としたこと、そして帰洛に及んで「於関東成怨之輩者、可属義経」という発言があったこと。実際にそういう発言があったのかどうかはわかりません。ただ、『玉葉』文治元年10月13日の条に兼実の許にもたらされた情報として「…義経中心結怨之間、又鎌倉之辺、郎従親族等、為頼朝失生涯、結宿意之輩、漸以数積、彼等内々令通義経行家等之許、…」という記述があるので、あながち虚構とも言い切れません。ついでに玉葉の記事の続きには、頼朝は法皇の叡慮に背くこと多く、義経がひそかに事の趣を奏したところ(鎌倉に反旗を翻すということに対して法皇が)許容あり、また(奥州の)秀衡与力という情報も伝えられています。

少し先走りました。7月9日には近畿地方で大地震。都にも甚大な被害があったことは玉葉や方丈記に記録されています。
8月4日、頼朝は叔父・源行家を謀反の疑いありとして追討の御書を佐々木定綱に下しています。
京都では余震が続く中、8月16日に除目があり、頼朝の依頼通り6か国を源氏が受領することになったと玉葉は述べており、吾妻鏡によればその6か国は伊豆・相模・上総・信濃・越後・伊予。義経が伊予守に任ぜられており、これは以前から決まっていたことなので仕方なく勅定に任せた、と書いてあります。義経を遠ざけた頼朝、頼朝に怨みを抱いた義経、義経を取り込もうとする法皇、という構図が見えてきます。

9月2日、勝長寿院の仏具などを調えるために梶原景季らが京へ向かいました。この使節には別の重要な使命もありました。6月に配流が決まったのに配所に赴いていない人の調査と、義経に行家追討を命じてその様子を窺うこと。義経が時忠の娘婿となってそのよしみから時忠を配流せずにいるので、この2件は繋がっています。景季らは12日に入洛、その結果、23日に時忠は能登へ下向。10月6日に景季が鎌倉に帰ってきて義経の様子を報告するには、最初は病気と称して対面せず、一両日を隔てて会ったところ脇息にもたれて憔悴した様子で灸の跡が数か所あった。行家追討のことを言ったら病気が治ったら計を廻らす、との返答。これを聞いた頼朝は仮病とみています。景時も一緒に報告を聞いていたようですが、一両日食事をとらず眠らなければ必ず憔悴した様子は作れるし、灸などは何箇所であろうと一瞬にできると推測。
10月9日、義経追討のため、土佐房昌俊が派遣されます。
10月13日、ついに義経がひそかに仙洞御所へ参り頼朝追討の官符を乞うという行動に出ます。すぐには結論が出ず、追討の宣旨が出るのは5日後の18日。前日の17日には土佐房が義経襲撃に失敗するという騒動が起きています。
玉葉には義経の要請から結論が出るまでの議論も記録されています。それによると義経は法皇・天皇を始めとする朝廷の人々を鎮西まで連れて行こうとしているのではないかと恐れている雰囲気。10月21日の伝聞には法皇が鎮西臨幸の儀は許容が無かったという記述があります。22日には「宣下之後狩武士、多以不承引云々」。23日には「人云、近江武士等、不与義経等、引退奥方云々」。宣旨まで貰ったのに人が集まらない義経と行家。
25日、兼実の所に大蔵卿泰経が院の御使として来訪。院宣の内容は、頼朝の許に使いをやって子細を陳述したほうが良いのではないか、という相談。兼実は宣旨を下して近国の武士を催したのに集まらなかったから支度が相違して洛中上下度を失ってこういう事態になったのであろうと推察。「頼朝之忿怒、雖遣使、雖不遣使、更不可有差別」と突き放したような物言いをしています。希望的観測による場当たり対応に嫌気がさしたのでしょうね。
この後も、玉葉には義経が法皇以下を鎮西へ連れて行くという風聞に人々が周章狼狽する様子が記されています。
[PR]
by kyougen-kigyo | 2013-10-05 23:11 | 考察編


鎌倉、登山、日本刀、その他諸々


by 柴

プロフィールを見る
画像一覧

カテゴリ

全体
鎌倉歩き
考察編

日本刀
展覧会
リンク集
その他
未分類

以前の記事

2017年 09月
2017年 08月
2017年 06月
2017年 04月
2017年 02月
more...

最新の記事

展覧会予告「修復のお仕事展’..
at 2017-09-16 10:55
今年も坂城へ
at 2017-08-19 13:18
戸倉三山縦走
at 2017-06-11 14:04
春の山へ
at 2017-04-21 20:27
陶磁器の論文発表中
at 2017-04-12 22:41

最新のコメント

外部リンク

ファン

検索

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
登山

画像一覧