人物評② 源範頼・義経

※お詫びと訂正。前回、保元の乱と平治の乱を勘違いしておりました。ものすごく初歩的なミスをしてしまった…修正済みです。

さて、頼朝と対照的な性格なのが義経。吾妻鏡によれば義朝の六男で(実際は「九郎」だから九男)、平治の乱の時は生まれたばかり。幼名が牛若丸なのは言うまでもないですね。鞍馬寺に預けられ、その後奥州へ逃れて、治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると奥州から参陣。義仲と平氏の追討で大活躍するも、頼朝に嫌われて朝敵として追われる身に。逃避行の末、文治5年(1189)閏4月、奥州で討たれる。享年31歳(数え年)。
治承4年から元暦元年までの約4年間は鎌倉にいたはずですが、鎌倉でのエピソードは少ないので、彼がどういう立場だったかは不明です。吾妻鏡では、ちょっと我儘な一面が見えています(2013年1月20日のブログ参照)。義経の存在が顕著に出てくるのは元暦元年(1184)、義仲追討のために上洛してからですが、範頼と違って鎌倉に手紙を送ったりしていないので(これも頼朝の不興を買った一因のようですが)、人柄がつかみにくい。前回に倣って箇条書きしてみれば、
・戦術に長ける実戦向きの人
・政治的な大局は見えてなさそう
・貴族嗜好があったような印象を受ける(官位を欲する、平時忠の娘婿になる、など)
・人望は薄い
どちらかというと木曽義仲と似たタイプだったのではないでしょうか。



景時の書状には、(合戦に勝てたのは)大勢の合力によるものなのに判官殿は「一身之功」と思っており、平家討滅の後は「殆超過日来之儀、士卒之所存皆如踏薄氷」。ここはちょっと解釈が難しい。何やら常軌を逸している雰囲気は伝わってきますが、どいういう状態だったのか…ヒントになりそうなのが文治元年5月5日条、「雖為小過不及免之、又不申子細於武衛、只任雅意、多加私勘発之由有其聞、綺已為諸人愁」。御家人たちは頼朝の直属ですから範頼や義経が大将軍として率いていても、頼朝に報告もなしに勝手に罰することはできないはずですが、義経はそれをやってしまったようです。
義経にしてみれば自分のおかげで平氏を討てたのに何で恩賞がないんだ!となるし、頼朝にしてみれば勝手に官位を受けるし、報告はよこさないし、自分の配下を勝手に罰しているし、壇ノ浦で生け捕りになった平時忠に近づいて娘を嫁にもらって時忠の配流を実行しないし、奥州と関係あるし、このまま増長させては危険、となる。この兄弟の乖離は必然ですね。
人望という点においては、派手に負けたのに人が集まってきた頼朝と、派手に勝ち続けたのに人が集まらなかった義経、その差は大きいと思います。義経については正妻と静の話なども書きたいのですが、それは吾妻鏡を読み進めた上でにします。

策謀家の兄と自由に突っ走る弟に挟まれて目立たなくなってしまったのが範頼。蒲の冠者・蒲殿・参河殿などと呼ばれています。登場からして地味で、義経が奥州から来た時の兄弟感動の再会みたいな場面はありません(義経の場合だって虚構だと思いますが)。吾妻鏡では養和元年閏2月、志田義広の乱の記事に「蒲冠者範頼同所被馳来也」とあるのが初出。御家人と先陣争いを起こして怒られたりはしていますが、まめに頼朝に手紙を送って状況報告、現場では千葉常胤や和田義盛に何かと相談して方針を決めるなど概ね頼朝の意向に沿った行動を見せており、そういう点では頼朝の信頼を得ていたといえるでしょう。平家物語では非常に情けない人物描写がされてしまっていますが、義経と共に出陣するときはいつも範頼の方が大手を任されていますし、範頼の官位「参河守」は頼朝の推挙によるもの。でも結局、建久4年(1193)に謀反の疑いをかけられ伊豆へ下向、その様子は「偏如配流」と吾妻鏡にあります。その後どうなったのか不明、殺されたとか生き延びたとか諸説あるようですが、義経のようなスケールの大きい伝説になっていないのはやはり個性の強さが義経には及ばなかったということでしょう。

平家追討の役に立った弟を2人も捨ててしまっていることが頼朝の不人気の一因でしょうが、この3兄弟、全員母親が違います。頼朝の母は熱田神宮の大宮司の娘・由良。範頼の母は名も伝わっていない遊女。義経の母は九条院の雑仕・常盤。弟の方はともかく、頼朝の方に同族意識が強かったかどうかは疑問です。範頼が建久4年に書いた起請文に「源範頼」と署名したことに「頗過分」と難癖つけているくらいですから。
しかし、義経と同じく常盤から生まれた阿野全成は頼朝在世中は無事に生きていましたから、弟を皆殺しにしてしまったわけではないのです。土佐に流されていた頼朝の同母弟・希義は治承4年に平氏に討たれていますが、希義が生きていたら異母弟たちとは扱いが違ったのか、どうか。ちなみに頼朝の上に義平・朝長という異母兄がいましたが、2人の兄が生きていたとしても、頼朝の母が一番格上なので頼朝が嫡男であることに変わりはなかったというのが定説です。
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by kyougen-kigyo | 2013-09-22 23:54 | 考察編


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