源平合戦後

文治元年(1185)3月、壇ノ浦にて平氏滅亡。4月11日、義経の使者が鎌倉に到着し、合戦の次第を報告。範頼は九州での事後処理に当たり、義経は生け捕りの者たちを連れて上洛するようにという指示が出る。4月14日、頼朝、院の褒詞を受ける。
これが壇ノ浦後の流れですが、後白河法皇から褒詞を受けた直後の4月15日、頼朝は関東の御家人が頼朝の推挙なしに勝手に朝廷の官職を貰っていることを名指しで厳しく叱責する(というよりほとんど罵倒する)文書を送っているのです。

  下 東国侍内任官輩中
   可令停止下向本国各在京勤仕陣直公役事
    副下交名注文一通

と題されたこの手紙には、東国には戻らず京都で勤めよ、墨俣(現・岐阜県大垣市墨俣町周辺)より東に下向することがあったら本領を召上げ斬罪とする、とまで書かれています。寿永二年十月の宣旨(1183)で東海道・東山道の実質支配権を得ていますから、墨俣より東は頼朝の縄張りという理解でしょう。頼朝の推挙を経て任官した場合は頼朝の恩を蒙ったことになりますが、勝手に任官した場合、それは頼朝から離れて朝廷の臣となったということを意味します。だからそういう連中に対して、朝廷の臣となった以上は朝廷で勤めよ、もう帰ってこなくていい! と言っているわけです(そこまで深く考えて任官した人はほとんどいないと思いますが)。一応、朝廷を上に戴く形を取りつつ独立した政権を目指す姿勢が表れています。
列挙されたのは24名。それぞれに、過去に義仲に味方していたことや平家方であったことを蒸しかえしたり、性格や見た目や声までけなしたりする内容(「目ハ鼠眼ニテ」とか「音様シワカレテ」とか…「顔ハフワフワトシテ」ってどんな顔だ?)。この書状、頼朝が自分で書いたものとしたら結構、毒舌家だったんではなかろうか、この人。24人の中には、奥州から義経に従っている佐藤忠信や、梶原一族(景時は入っていない)、八田知家や小山朝政といった有名どころまで入っています。もっとも、この人々は後にも普通に登場しているので、本当に罰されたりしたわけではないようです。リストの筆頭に来そうな義経の名前が無いのが意味深な。というより、暗に義経に対する警告とも感じられます。

そして4月21日、義経の独善を訴える景時の書状が鎮西から到着。これで景時の悪名が高くなってしまっているのですが、ここまでの義経の行状・性格を見ていると、さもありなん、という気もするのです。もちろん、吾妻鏡や平家物語は彼らの実像を描いたものとは限りません。多分に虚飾が入っている可能性があります。しかし、どうしても私には後世長く語られているような「冤罪で兄に追い詰められた悲劇の英雄」には見えないのです…そもそも勝手に官職に就いた時点で頼朝の怒りを買うことは必定だった。しかも頼朝が次に狙う奥州とも関わりが深い。吾妻鏡を信用すれば、養和2年(1182)にはすでに奥州討伐を決めていたのですから(2013/3/31のブログ参照)。景時の讒言が有っても無くても同じことだったでしょう。この辺の人物評もしてみたくなってきた。
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by kyougen-kigyo | 2013-09-08 19:47 | 考察編


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