平家追討使、四国編① ~屋島~

2月16日、関東の軍兵、讃岐国へ出発。義経が先陣として出航します。義経の滞在する旅館に来ていた大蔵卿・高階泰経が、「為大将軍者、未必競一陣歟、先可被遣次将哉者」─ 大将軍たるものは先陣を競うのではなく、まず次将を遣わすべきではないのか、と諫めたところ、義経は「殊有存念、於一陣欲棄命」─ 殊に存念あって先陣にて命を捨てようと思う、と答えています。

一方、平氏勢は、宗盛が讃岐屋島に、知盛が九州勢を率いて門司関を固め彦島を陣営と定める。宗盛は義経軍に、知盛は範頼軍に備えた形ですかね。




2月18日、義経が摂津渡部から海を渡ろうとしたところ暴風が起きて船が破損してしまいます。しかし、ここが義経らしい、「朝敵追討使暫時逗留、可有其恐、不可顧風波之難」といって丑の刻に5艘だけで船出、卯の刻に阿波桂浦(吉川本では桂浦。『現代語訳吾妻鏡』では椿浦として注釈つき)に到着、百五十余騎を率いて上陸。普通3日間かかると書いてありますが6時間くらいで渡ってしまいます。範頼なら海が荒れて渡れない、と頼朝に泣きついているでしょう、性格の違いが如実に出ています。上陸後は屋島へ向かって進軍、途中で桜庭良遠を敗走させています。
2月19日辰の刻、いよいよ屋島に達し、民屋を焼き払う。源氏の攻撃を知った平氏は主上と共に海上へ避難。陸と海での矢戦となる中、奥州から義経に従ってきた佐藤継信が射取られ、悲嘆した義経は院から賜った秘蔵の名馬を僧に与えて供養します。平家物語では継信を射たのは能登守教経で、教経がかわいがっていた童・菊王丸も継信の弟・忠信に射られたので双方、悲しんでその日の戦が終わったことになっています。
2月21日、義経、80騎で志度に逃れた平氏を追撃。平氏方からの降人も出てくる。熊野の湛増が源氏に合力するという噂が洛中に流れる。
2月22日、渡辺にとどまっていた梶原景時ら、140艘で屋島に到着。

以上が吾妻鏡に出ている屋島の合戦の流れですが、平家物語ではかなり人物描写が入ってきます。それによると義経、ずいぶん横暴なんですけど…細かいことは平家物語を読んでいただくとして、吾妻鏡にはなかった義経と梶原景時の「逆艪」論争が、渡辺出航の時にあったことになっています。冷静に戦術的に見れば景時の言が論理的なんですけれども、「退く」というのが関東武士に嫌われたのと、とにかく義経と性格が合わなかったんですね、この人は。
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by kyougen-kigyo | 2013-08-11 23:14 | 考察編


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