平家追討使、九州編

平家追討使は九州を範頼、四国を義経が担当していましたが、元暦2年(1185、8月に改元して文治元年)正月6日、範頼から兵糧がなくて御家人たちが逃げ帰りたがっているという書状が鎌倉に到来。頼朝は兵糧と船を送るとともに返書で筑紫の者たちを味方につけるよう(「国の者の心を破らぬ様なる事こそ吉事にてあらんずれ」)、安徳帝を無事お迎えするように(「八島に御座す大やけ幷二位殿女房たちなど少もあやまちあしざまなる事なくて向へ取申させ給へ」)、といったことを伝えています。安徳帝の身については重ね重ね心配している様子。そして範頼に従って九州へ行っている人々のうち、特に千葉常胤、小山氏の人々、甲斐の伊沢信光と加々美長清を大事にするように、とも述べています。

正月12日、範頼、周防より赤間関へ至り海を渡ろうとしたが船も兵糧もなく数日逗留、和田義盛のような者でさえ帰りたがる有様。26日になって、豊後の臼杵惟隆と緒方惟栄の兄弟が82艘の軍船を用意、周防の宇佐那木上七遠隆が兵糧米を献じたので、ようやく豊後へ渡ることができました。北条義時、足利義兼、小山朝政、千葉常胤、和田義盛ら、豊後にわたった人々の名前が列記されています。渡海の拠点である周防を空にするわけにもいかないので三浦義澄が説得されて周防で待機。




2月1日、範頼の軍勢、豊後に上陸。さっそく太宰少弐らと合戦。
2月13日、伊沢信光から頼朝へ書状が届いて、長門国に着いたが飢饉で兵糧がないから安芸に退きたい、九州を攻めようにも乗船がない、と言ってきています。翌日、範頼からも同じような書状が到来、せっかく長門に渡ったのに兵糧がなくて周防に戻ってしまった、一致団結できない、と嘆く内容。頼朝は兵糧は送ったからもう少し我慢しろ、平家は故郷を出て旅泊にあるのに頑張っているじゃないか、と返書。敵を引き合いに出さなきゃいけないくらいに、士気においては完全に平家の方が勝っている状態だったようで・・・平家方の兵糧確保はどうだったんでしょう?
〈2月19日、屋島の合戦〉
3月9日、範頼から書状。再び豊後に渡ったようですが、やはり兵糧確保が困難で皆帰りたがっているという同じような内容です。また、四国の義経に加勢した熊野別当湛増が九州に来るという噂が流れて、そのようなことがあっては範頼の面目が潰れると嘆いています。これに対して、頼朝は湛増が九州に行くことはない、と宥めています。また、千葉常胤は老骨を顧みず旅泊を堪えていて神妙であるということ、西海で功績のあった12人の御家人たちには直接手紙を送っています。

ずっと兵糧不足と船不足と士気低下に悩まされて、どうもぱっとしないイメージになってしまっている範頼、この頃、30代半ば。帰りたがる御家人たちに突き上げ食って、ちょっと可哀そうな気もします。
3月24日、壇ノ浦の戦いとなりますが、それは四国編ということで。
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by kyougen-kigyo | 2013-08-04 20:53 | 考察編


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