元暦元年残り
前回の吾妻鏡、中途半端に終わったので元暦元年を最後まで。
11月26日、頼朝は父・義朝の菩提を弔うための伽藍を建てる土地を鎌倉中に探し、御所の東南に決定。この伽藍は勝長寿院と呼ばれ、源氏の菩提寺として鎌倉屈指の大寺院になりますが、現存はせず、わずかに「大御堂ヶ谷」という地名が残っています。吾妻鏡には「南御堂」の名でも出てくるこの大寺院、本格的な発掘調査はまだされていないようです。住宅地ですから、せいぜい個人の家の建て替えの時に緊急調査する程度しかできないでしょう。大規模な発掘調査は見込めませんね。住んでる人がいる以上、仕方のないことです。ましてや室町時代頃には廃寺になっていたようですから。
12月7日、平行盛、五百余騎を率いて備前児島に城郭を構える。平家追討使として向かっていたのが佐々木盛綱。行盛に挑発されますが船がなく(船は行盛が押さえていたのでしょう)、藤戸の海を馬で押し渡り、行盛を追い落とす。いわゆる「藤戸渡し」です。盛綱が地元の住人に浅瀬を教えてもらった後、秘密を守るためその住人を殺して藤戸を渡ったという話が平家物語にあり、謡曲や歌舞伎などにいろいろ脚色されていますが、吾妻鏡にはその話は出てきません。
ところで西の方の地理には疎いのですが、備前児島って島だったんですね。江戸時代からの干拓で地続きになったそうです。どうも「藤戸渡し」と「児島が島だったこと」が頭の中で繋がってませんでした。そうか、児島高徳の頃も島だったんだ・・・
11月26日、頼朝は父・義朝の菩提を弔うための伽藍を建てる土地を鎌倉中に探し、御所の東南に決定。この伽藍は勝長寿院と呼ばれ、源氏の菩提寺として鎌倉屈指の大寺院になりますが、現存はせず、わずかに「大御堂ヶ谷」という地名が残っています。吾妻鏡には「南御堂」の名でも出てくるこの大寺院、本格的な発掘調査はまだされていないようです。住宅地ですから、せいぜい個人の家の建て替えの時に緊急調査する程度しかできないでしょう。大規模な発掘調査は見込めませんね。住んでる人がいる以上、仕方のないことです。ましてや室町時代頃には廃寺になっていたようですから。
12月7日、平行盛、五百余騎を率いて備前児島に城郭を構える。平家追討使として向かっていたのが佐々木盛綱。行盛に挑発されますが船がなく(船は行盛が押さえていたのでしょう)、藤戸の海を馬で押し渡り、行盛を追い落とす。いわゆる「藤戸渡し」です。盛綱が地元の住人に浅瀬を教えてもらった後、秘密を守るためその住人を殺して藤戸を渡ったという話が平家物語にあり、謡曲や歌舞伎などにいろいろ脚色されていますが、吾妻鏡にはその話は出てきません。
ところで西の方の地理には疎いのですが、備前児島って島だったんですね。江戸時代からの干拓で地続きになったそうです。どうも「藤戸渡し」と「児島が島だったこと」が頭の中で繋がってませんでした。そうか、児島高徳の頃も島だったんだ・・・
by kyougen-kigyo
| 2013-07-21 20:45
| 考察編
鎌倉、登山、日本刀、その他諸々
by 柴
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