吾妻鏡、元暦元年(1184)6月~

6月5日に朝廷で小除目が行われ、20日にその報告が鎌倉へ到来。頼朝の依頼通りの人事で権大納言が平頼盛、讃岐守に一条能保、参河守に源範頼、他。義経は頻りに官途につきたがっていたけれども頼朝はあえて許さず、範頼の方を推挙したとあります。平頼盛は平家都落ちの時に京都に残り、源氏に敵対せず、この年には鎌倉に来て頼朝に歓待されて、ちょうど除目の行われていた6月5日に京都へ帰るために鎌倉を出発しています。清盛の弟という平氏一門では重要なポジションでいながら不思議な人物です。頼朝としては、頼盛は20年前に自分の命乞いをしてくれた池禅尼の息子であるという好意の他に、権力を一族で固めた平氏とは違うぞ、ということを世間にアピールしたかったのではないかと思います。

8月8日、範頼らが平家追討使として、西海へ向けて出発。
8月17日、義経の使者が鎌倉に参着、6日に左衛門少尉に任ぜられた旨を伝える。義経も平家追討使として京都を出るはずだったのですが、この勝手な任官が頼朝を怒らせ、義経の出陣は一時見合わせとなります。それでも京都の押さえ役は他にいなかったようで、9月には平氏方で討たれた平信兼の京都の所領を義経に与えており、9月14日には河越重頼の娘が義経に嫁すために上洛しています。しかし、10月になって中原広元から、9月18日に義経が院と内裏への昇殿を許された(=五位に叙任された)ことが報告されています。頼朝の意向と義経の希望のすれ違いが顕在化してきました。

一方で鎌倉の組織作りが着々と進んでおり、8月24日に行政を預かる公文所の上棟式、28日には門が立てられ、10月6日には吉書始め。公文所の別当には中原広元が任ぜられます。また、10月20日には裁判を扱う問注所の体裁も整ったようで、こちらは三善善信が任されています。文官が重用されるようになってくるわけですが、11月21日には藤原俊兼という人物が華美を咎められています。もともと派手好きな人だったようですが、この日は頼朝に呼ばれて特に装っていたようで、「着小袖十余領、其袖妻重色之」わかりやすく言えば十二単のように、小袖を重ね着して袖の部分に色を重ねて(いわゆる「襲の色目」というやつ)着飾っていたわけです。頼朝はこれを見て、俊兼自身の刀でその小袖の褄を切り取り、叱っています。どうもこの行為は他の文官に対する戒めでもあったようで、その場には中原広元や藤原邦通もいて「皆銷魂」とあります。
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by kyougen-kigyo | 2013-07-06 14:03 | 考察編


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