上総介広常のこと

寿永2年に唐突に殺されてしまった上総広常。吾妻鏡に広常の名が出てくるのは治承4年(1180)8月24日です。石橋山の合戦に参加しようとしていた三浦一族が、頼朝が敗れたという報を聞いて三浦に戻る途中で、広常の弟・金田小大夫頼次が七千余騎を率いて合流しています。吾妻鏡は数字に信憑性がないので、七千余騎も誇張だと思いますが。

本人が登場するのはそれから10日ほど後の9月上旬。安房に逃れた頼朝が、広常の居所を訪れようと言って3日に出発、しかし途中、長狭六郎常伴という者が襲ってきます。名前からして長狭郡の辺りの住人だったのでしょう。これは三浦義澄が撃退して、4日、安房国住人安西景益が「長狭六郎みたいのもいるから、広常の所には使いをやって迎えにこさせましょう」と提案。頼朝はこの言を入れて側近の和田義盛を上総広常の元へ、安達盛長を千葉常胤の元へ遣わしました。



その結果、案外慎重派な広常は「親戚の常胤に相談してみる」という消極的な返答。対して常胤は即座に了承、しかも鎌倉へ行くべきだという提案もしている。この後の頼朝の常胤に対する信任の厚さはこの時点で決まったでしょう。常胤は土産とばかりに平氏方の目代を討ち取ってから17日に頼朝と合流、その勢、三百余騎。広常は19日に「軍勢を集めるのに時間がかかった」と言い訳しながら隅田川の辺りで合流、その勢、二万騎。この二万という数字も誇張かと思いますが、とにかくそれまで参上した武将たちとは格段に兵力が違った。当然、頼朝には歓迎されると思ったのが遅参を叱られて、それまでは頼朝を討ち取って平家に献じようとひそかに思っていたのが一転、心服。その後は佐竹氏討伐に活躍し、有能な人材を推挙するなどの働きをしていますが、一方では頼朝に下馬の礼をしなかったり、酒席で頼朝の水干を賜った岡崎義実に文句をつけて激しい言い争いをしたりと反感を買うようなこともしています。この騒ぎが養和元年(1181)6月13日。翌年正月23日条に、平時家を広常が推挙した記事がありますが、その理由は「広常去年以来御気色聊不快之間為贖其事」と書かれています。6月の事が後を引いていたのか、他にも何かしでかしたのかはわかりませんが、岡崎義実は義朝の忠臣だった老武者で、頼朝が鎌倉入りする前から義朝の屋敷跡に寺を建てて供養していたような人物。その義実に対する暴言を聞くのは、まぁ、気分は良くなかったでしょうね。ただし頼朝はその場では何も言わず、双方を諫めて喧嘩を収めたのは三浦義澄の弟の義連で、この後、義連は頼朝のお気に入りになったと書かれています。頼朝はこういう場でわざと傍観して各人の器量を見定めていた節があります。

広常が殺されたのは、頼朝の機嫌を直そうと時家を推挙した翌年の12月。吾妻鏡の寿永2年が欠落しているために直接の契機は不明。勢力が大きすぎて危険視されたこと、愚管抄に記されたように彼の言動が頼朝が目指すところとちょっと違っていて都合が悪かったこと、頼朝の傾向として空気が読めない人に対して非常に厳しいということ(これは追々表面化します)。総合的判断でこういう結果になってしまったのでしょう。

ちなみに朝比奈切通しの入口あたりに「梶原太刀洗いの水」という湧水があって、景時が広常を討った後にここで血のついた太刀を洗ったという伝説がありますが、事件があったのは大倉御所と思われますから遠すぎます。広常の屋敷が殺害現場だという話もありますが、そうすると吾妻鏡の「依広常事営中穢気」という一文の説明が付きません。景時が「双六しよう」なんて広常の屋敷に遊びに行ったら何事かと疑われそうですし。やはり侍所で暇してる時に「時間つぶしに双六でも」という持って行き方が自然な気がします。
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by kyougen-kigyo | 2013-04-17 20:00 | 考察編


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