吾妻鏡読解続けます
養和2年(=5月に寿永と改元。鎌倉側では治承6年を使用)3月に政子の着帯の儀がありましたが、6月、頼朝は亀の前という女性を中原小忠太光家の小坪の家に招きます。亀前は「良橋太郎入道息女」で、伊豆にいた時からの知り合いで「匪顔皃之濃。心操殊柔和也。」と吾妻鏡には紹介されています。当時は一夫一婦制ではありませんし、ことに源氏の棟梁ですから妻が5、6人いても当たり前の時代です。頼朝の父・義朝にも、わかっているだけで5人の妻がいました。気性の激しさが強調されがちな政子を思うと「心操殊柔和」な女性に惹かれた頼朝が微笑ましいのですが。頼家誕生と時期が重なっているし亀前事件に絡んで鎌倉殿と御家人たちの様子もうかがえるので少し詳しく見ていきましょう。
6月1日、亀前を小坪の中原氏宅へ住まわせます。「外聞をはばかり居所を遠くに構えた」「御浜出にも便宜の良い場所である」旨が吾妻鏡には書いてあります。7日、さっそく御家人たちと由比浦で牛追物などをしていますが、酒宴の最中に病人が出てこの日はお開き。8日、頼朝、前日の病人を見舞った後、中原氏宅すなわち亀前の所へ行く。
7月12日、政子が出産準備のため比企氏の屋敷へ移ります。今の妙本寺がある所です。出産は1ヶ月後の8月12日。その間に、頼朝は新田義重の息女(頼朝の兄で平治の乱の時死んだ義平の妻だった女性)に艶書を送っていますが、義重は政子をおそれ、息女を別人に嫁がせて頼朝の怒りを蒙っています。この部分、吾妻鏡に書かれている表面上だけではない問題が含まれていますね。新田義重といえば頼朝の向こうを張って源氏の棟梁の座を狙っていたこともあり、頼朝挙兵時に遅参して不興を被った人物。頼朝としては新田氏に対して、もうちょっと仲良くしましょうよ、という政治的な意味も込めての息女への艶書だったと思うのです。義重はこれを蹴ってしまって結局、幕府の中枢から外れた所にいることになり、150年後に子孫の義貞が鎌倉を攻めることになる。義重が政子を恐れたというのも解せない話で、いくら政子が気が強いと言っても、新田氏ほどの勢力と格がある家ならば当時の北条氏など問題にはならなかったはず。北条氏は後に平氏の流れを名乗りますが、実際には出自についてはまったく不詳で、伊豆の土豪であったろうという説が有力です。嫡子というのは母親の実家の格で決まるのが普通ですから、先祖不明の北条氏の女性から生まれた子よりも、源氏嫡流に近い新田氏の女性から生まれた子の方が優位です。自分の孫が武家の棟梁になれる可能性を蹴ってまで頼朝が嫌いだったのか、情勢を見てまだ自分が棟梁になる可能性があると思ったのか(木曽義仲が快進撃をしている最中ですから、まだ世の中どう転ぶかわからなかったわけで)。北条氏のもとで編纂された吾妻鏡には書かれていないことも多いので推測するしかありません。
出産から2ヶ月後の10月17日、政子と若君(=頼家)は比企氏宅から大倉御所へ戻ります。11月10日、政子は義母(時政の後妻)の一族である牧宗親に命じて亀前の飯島の家を破却。この頃、亀前は小坪より近い飯島の藤原広綱の家に引越していたようです。鎌倉市と逗子市の境目にかかる辺りの海岸に今も飯島の地名がありますから、その辺でしょう。11月12日、事件を聞いて激怒した頼朝は自らの手で宗親の髻を切り、宗親は逃亡。11月14日、時政が宗親の処罰に抗議して伊豆へ帰国。12月10日、亀前は小坪の中原氏宅に戻る。
以上が亀前騒動のあらまし。短い間に3人の女性が絡んでいるので頼朝が女好きと評される所以でしょうが、関東が比較的平穏を保っているこの時期に、源氏の棟梁としてふさわしい家庭環境を整えておく必要性を感じたのではないかと思います。
一方で、嫉妬のあまり過剰反応していると見られがちな政子ですが、北条一族を巻き込んでいることに注意。というより時政が政子を巻き込んでいると言うべきか。時政としては後継ぎは政子の息子であってほしいわけで、政子に亀前の存在を教えたのは時政の後妻である牧の方なのです。北条時政と牧の方、この夫婦は後に実朝を殺して娘婿を将軍にたてる計画を企てるくらいですから、かなり野心が強い人たちだったと思われます。
割りを食ったのが亀前に家を貸していた藤原広綱で、政子の怒り収まらず12月16日に遠江に配流となっています。この辺、どうも頼朝と政子のせめぎ合いが見えますね。
ところで、亀前騒動だけ見ていると実に平和(?)な鎌倉の風景ですが、9月15日には北陸道の木曽義仲追討軍が京へ逃げ帰り、9月25日には土佐に流されていた頼朝の同母弟・希義が平氏方の蓮池家綱・平田俊遠らに討たれ、10月9日には越後の城長茂が木曽義仲に敗れ、11月20日には頼朝が希義の仇討ちのため源有綱を土佐へ遣わし、・・・という具合で源平の混沌とした社会情勢が続いています。
6月1日、亀前を小坪の中原氏宅へ住まわせます。「外聞をはばかり居所を遠くに構えた」「御浜出にも便宜の良い場所である」旨が吾妻鏡には書いてあります。7日、さっそく御家人たちと由比浦で牛追物などをしていますが、酒宴の最中に病人が出てこの日はお開き。8日、頼朝、前日の病人を見舞った後、中原氏宅すなわち亀前の所へ行く。
7月12日、政子が出産準備のため比企氏の屋敷へ移ります。今の妙本寺がある所です。出産は1ヶ月後の8月12日。その間に、頼朝は新田義重の息女(頼朝の兄で平治の乱の時死んだ義平の妻だった女性)に艶書を送っていますが、義重は政子をおそれ、息女を別人に嫁がせて頼朝の怒りを蒙っています。この部分、吾妻鏡に書かれている表面上だけではない問題が含まれていますね。新田義重といえば頼朝の向こうを張って源氏の棟梁の座を狙っていたこともあり、頼朝挙兵時に遅参して不興を被った人物。頼朝としては新田氏に対して、もうちょっと仲良くしましょうよ、という政治的な意味も込めての息女への艶書だったと思うのです。義重はこれを蹴ってしまって結局、幕府の中枢から外れた所にいることになり、150年後に子孫の義貞が鎌倉を攻めることになる。義重が政子を恐れたというのも解せない話で、いくら政子が気が強いと言っても、新田氏ほどの勢力と格がある家ならば当時の北条氏など問題にはならなかったはず。北条氏は後に平氏の流れを名乗りますが、実際には出自についてはまったく不詳で、伊豆の土豪であったろうという説が有力です。嫡子というのは母親の実家の格で決まるのが普通ですから、先祖不明の北条氏の女性から生まれた子よりも、源氏嫡流に近い新田氏の女性から生まれた子の方が優位です。自分の孫が武家の棟梁になれる可能性を蹴ってまで頼朝が嫌いだったのか、情勢を見てまだ自分が棟梁になる可能性があると思ったのか(木曽義仲が快進撃をしている最中ですから、まだ世の中どう転ぶかわからなかったわけで)。北条氏のもとで編纂された吾妻鏡には書かれていないことも多いので推測するしかありません。
出産から2ヶ月後の10月17日、政子と若君(=頼家)は比企氏宅から大倉御所へ戻ります。11月10日、政子は義母(時政の後妻)の一族である牧宗親に命じて亀前の飯島の家を破却。この頃、亀前は小坪より近い飯島の藤原広綱の家に引越していたようです。鎌倉市と逗子市の境目にかかる辺りの海岸に今も飯島の地名がありますから、その辺でしょう。11月12日、事件を聞いて激怒した頼朝は自らの手で宗親の髻を切り、宗親は逃亡。11月14日、時政が宗親の処罰に抗議して伊豆へ帰国。12月10日、亀前は小坪の中原氏宅に戻る。
以上が亀前騒動のあらまし。短い間に3人の女性が絡んでいるので頼朝が女好きと評される所以でしょうが、関東が比較的平穏を保っているこの時期に、源氏の棟梁としてふさわしい家庭環境を整えておく必要性を感じたのではないかと思います。
一方で、嫉妬のあまり過剰反応していると見られがちな政子ですが、北条一族を巻き込んでいることに注意。というより時政が政子を巻き込んでいると言うべきか。時政としては後継ぎは政子の息子であってほしいわけで、政子に亀前の存在を教えたのは時政の後妻である牧の方なのです。北条時政と牧の方、この夫婦は後に実朝を殺して娘婿を将軍にたてる計画を企てるくらいですから、かなり野心が強い人たちだったと思われます。
割りを食ったのが亀前に家を貸していた藤原広綱で、政子の怒り収まらず12月16日に遠江に配流となっています。この辺、どうも頼朝と政子のせめぎ合いが見えますね。
ところで、亀前騒動だけ見ていると実に平和(?)な鎌倉の風景ですが、9月15日には北陸道の木曽義仲追討軍が京へ逃げ帰り、9月25日には土佐に流されていた頼朝の同母弟・希義が平氏方の蓮池家綱・平田俊遠らに討たれ、10月9日には越後の城長茂が木曽義仲に敗れ、11月20日には頼朝が希義の仇討ちのため源有綱を土佐へ遣わし、・・・という具合で源平の混沌とした社会情勢が続いています。
by kyougen-kigyo
| 2013-03-30 19:27
| 考察編
鎌倉、登山、日本刀、その他諸々
by 柴
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