吾妻鏡、考察編~政子懐妊と祐親最期

養和元年8月16日に京都を発した頼朝追討軍のその後の動きは、なぜか吾妻鏡には出てきません。書くほどの所まで来なかったのでしょう。それとは別に10月3日、平維盛が東国へ向けて出陣したという記事があり(富士川のリベンジでしょうか?)、防禦のため11月5日に足利義兼・源義経らを向かわせようとしたところ、佐々木秀義が「維盛の軍は近江国で止まっていていつ下向するかわからない上に、源行家が尾張国に陣を張っているから慌てなくてもよい」と言上して出陣中止となっています。実際、維盛の軍勢は東国まで来ることはありませんでした。こう見てくると頼朝、結構いちいち出陣を止められてますね…ちゃんと周りの言うことを聞き入れて止まるのが頼朝の偉い所なんでしょう。

翌養和2年(=寿永元年、1182)は政子の懐妊・若君(後の頼家)誕生と頼朝の浮気騒動で埋まっている感があります。それ以外の養和2年の大きいニュースとしては、2月14日の伊東祐親の自害、が挙げられるでしょう。頼朝の伊豆流人時代に、頼朝と自分の娘の仲を認めずに子供を殺し、頼朝をも殺そうとした人物として有名ですが、治承4年に捕縛されて、娘婿にあたる三浦義澄が身柄を預かっていました(この辺り、ある程度の勢力がある武士団はほとんどすべて姻戚関係にありますから)。政子懐妊を機に義澄が恩赦を願い出て頼朝は許したのですが、それを義澄から聞いた途端に祐親は自害してしまいました。「禅門承今恩言。更恥前勘。忽以企自殺。」とありますが、自分の行為を恥じたというより、許されたことを恥じたのではないでしょうか。娘婿が誠心誠意、頼朝に仕えている姿や、自分の家よりずっと小さい土豪だった北条氏が頼朝と姻戚関係を結んだことによって地位を上げていく様子を2年間ずっと見ている。恩赦という一言に「負け」を実感したのではないかと思うのです。この後、頼朝は祐親の子の祐清を呼び出します。流人時代、祐親が頼朝を殺そうとしていることを祐清が告げたので、頼朝は走湯山に逃げることができた。祐親が自殺したことを悔いると共に、祐清の功を改めて賞したいということだったのですが、祐清は「父已亡。後栄似無其詮。早可給身暇。」と述べます。「身の暇」は死を給わりたいということ。結局、頼朝は不本意ながら祐清を誅殺。「世以莫不美談之」「有孝行之志如此」と吾妻鏡にはあります。こういう所に当時の武家の価値観というか倫理観が出てきますね。ともあれ、頼朝にとっては流人時代への一つの区切りになったのではないでしょうか。

3月9日、御台所(政子)の御着帯。民間でも多くは妊娠5ヶ月目に行われる帯祝です。千葉常胤の妻からという形で帯が献上され、頼朝が自身で結ぶ役をしています。3月15日、鶴岡社頭から由比浦に至るまで「直曲横而造詣往道」、これが段葛の原型といわれていますが、この時点では段葛という言葉は見えません。ちなみに現在の段葛は昭和に入ってから作られたもの。4月には鶴岡若宮辺りの弦巻田という水田三町余を池に改修したという記事もあります。当時、鶴岡八幡の周りは水田だったのですね。
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by kyougen-kigyo | 2013-03-03 11:42 | 考察編


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