鎌倉幕府の文官たち

武家の都でも幕府が機能するためには文官の存在が必要です。
特に三善康信(善信)・康清兄弟は、頼朝の乳母の妹の子という関係で(現代から見るとややこしい関係ですが)、挙兵前から京都の情報を逐一(吾妻鏡によると10日に1度のペースで)流してくれています。朝廷の様子を伝えるだけではなく、頼朝の不利になりそうな動きがあるとすぐに密書を送り注意を促したりしているのです。例えば養和元年に源氏追討の宣旨が出された時。8月13日に宣旨が出て、16日に頼朝追討軍が京を立ちますが、26日には三善康信からの飛脚で官軍が東方を指して出陣した旨が鎌倉に伝えられています。



京─鎌倉間にかかる日数は、軍勢の多寡や目的によってだいぶ違うと思いますが、前年の平維盛が関東へ向かった時には約20日かかって富士川まで。『承久記』で鎌倉から発した軍勢は16日間かかって尾張一宮に到着。単身の飛脚であれば、『承久記』に出てくる「究めて足早き者」が急行して5日間。「足早き」が特技なんだから馬ではなく自分の足で走ったのでしょう、この人は。つまり大規模な軍勢であれば京から鎌倉までは20~30日かかると見てよいでしょうから、10日で届いた情報は重要です。関東が安定するまで上洛しなかった頼朝にとって、こうした在京の源氏方は貴重な存在だったはず。康信が鎌倉に来るのは寿永3年(1184)になってからのことです。

一方、藤原邦通のように関東で頼朝に仕えた文官もおり、この人は山木兼隆を攻める前に山木の館に入り込み、土地の絵図を描いて頼朝に見せたと吾妻鏡には書かれています。他にも中原親能・広元(後に大江氏)兄弟、平時忠の子でありながら継母によって上総に配流されて上総広常の娘婿となり、広常の推挙で頼朝に仕えた平時家など、頼朝の周りには京下りの文官が多数、います。頼朝の「愛京洛客」(吾妻鏡養和2年正月23日)という態度を見て、出世の見込めない京よりは…と可能性を求めて鎌倉へ下ってくる人材も多かったのでしょう。頼朝にしてみれば、将来、朝廷と交渉する段になった時に武張った御家人だけじゃ困るわけで。義仲の失敗の原因がまさにそれですから。

頼朝の法華堂跡地の上の方に「大江広元墓」というのがありますが、あれは江戸時代に勝手に決めたものなので、まず信用しないこと。江戸~明治時代に勝手に決めた遺跡、多いんですよね、鎌倉には。「頼朝墓」もその一例ですが。早くから観光都市になると、そいういう後付け名所がよく創られますね。
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by kyougen-kigyo | 2013-02-24 13:31 | 考察編


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