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元号のこと

1181年、治承5年が7月に養和元年に改元した前後の記事を読んでいて気付くのは、『吾妻鏡』の項目立て自体は「養和」を使っているのに、その中に引用されている古文書(吾妻鏡が編纂された時期から見れば幕府草創期は100年以上昔ですから古文書と言ってよいでしょう)には8月以降も「治承五年」が使われていること。ためしに鎌倉遺文なども見てみると、治承は7年まで使われています。中央との連絡が少なかった地方ならば改元のニュースの伝達が遅くて元号がずれることがありますが、鎌倉では京都との連絡を保っていたのですから改元に気付かなかったということはあり得ません。すると、故意に治承を使っていたことになります。治承→養和、養和→寿永の改元は安徳天皇のもとで行われたもの、つまりは平氏が行ったもの。反平氏の立場上、養和・寿永の元号を拒否し、高倉天皇のもとで決められた「治承」を正統として使い続けたのです。

暦というのは今でこそ普通の生活に溶け込んでいますが、暦を受け入れるかどうか、というのは支配にかかわる問題であり、古代から洋の東西を問わず支配階級は暦を作り、管理することに腐心してきたわけです。暦の区切りである元号を受け入れるかどうか=その元号を決めた勢力の支配を受け入れるかどうか。ということであり、源氏としては平氏の元号は受け入れられなかった。南北朝時代を考えればわかりやすく、南朝元号と北朝元号が並立してその勢力域ごと、支持者ごとにそれぞれの元号を使っています。さらには地域限定で朝廷とは関係なく勝手に作ってしまった「私年号」というのもありますし。最近の例ではキリスト紀元を拒否して皇紀を使った戦時中の日本が、こういう意識に近いと言えそうです。元号の使い方ひとつにもその人のイデオロギーが出てくるのは今も同じでしょうか。
by kyougen-kigyo | 2013-02-15 22:38 | 考察編


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by 柴

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