吾妻鏡、考察編~養和元年後半

鶴岡八幡宮の新築が成った同じ頃(治承5年が7月に改元して養和元年8月)、奥州の藤原秀衡に対して頼朝追討の、越後の城四郎資職に対して木曽義仲追討の宣下がなされています。宣旨といっても数え年4歳の安徳天皇ですから、当然のことながら天皇から発されたものではなく平氏が出したもの。この〈勅命〉で平氏方が動き、応戦に出た木曽義仲が圧勝して上洛へ、という流れになります。しかし頼朝は鶴岡八幡や鹿島神宮、伊勢神宮などに祈祷を依頼したりしながらまったく鎌倉から動かず、関東にいる平氏方の武士を討つことに専念しているようです。およそ1年前、富士川で勝って上洛しようとして止められた記憶がしっかり残っていて腹を据えた感じです。9月には平氏方の下野国足利太郎俊綱追討のために和田義茂、三浦義連、葛西清重らが出陣します。ちなみに足利俊綱の息子は頼政挙兵の時に平氏について宇治川を先陣で渡った又太郎忠綱、武勇談が平家物語に出てきます。隣の領地の新田氏と仲が悪くて平氏方になった、関東では有力な反頼朝勢力。ところが、義茂ら追討軍が到着する前に俊綱は家臣の桐生六郎に討たれてしまい、俊綱を討った六郎はその賞として御家人にしてほしいと言ってきますが、譜代の主人を討ったことは不当である、と即刻却下、首をはねられ俊綱の首の隣に晒されました。吾妻鏡では桐生六郎は「俊綱専一者」と表現されていて、俊綱の側近だったと思われます。当時「返り忠」は珍しいことではありませんが、このように譜代の家臣が主人を討つ行為は批判の対象であり、さらに頼朝が六郎に対して厳しく処置しているのは、同じように身内に討たれた父を思ったからかもしれません。

桐生六郎が俊綱の首を持参した経路ですが、まず武蔵大路から、梶原平三景時のもとへ使者を立て、景時を通じて頼朝に報告。頼朝は深沢から腰越へ向かうように指示。おそらく腰越で首実験の上、晒されたと思われます。武蔵大路は現在、正確な場所が分からなくなっている道の一つですが、深沢は湘南モノレールに「湘南深沢」の駅名があります。藤沢市に近い方で、近辺には「梶原」の地名も残っており、梶原景時を通したという記述とも合致します。ここから鎌倉の中には入らせず海辺の腰越へ向かわせる、つまり深沢─腰越ラインが鎌倉の西側の境界線だったと考えられます。後に義経も腰越で止められていますね。

桐生六郎と頼朝の間の仲介の労を取った梶原景時ですが、特に六郎と関係があったわけではなさそうで、御家人になりたいという六郎の願いを頼朝に伝えたのも景時なら、頼朝の命を受けて六郎の首を晒したのも景時。事務的に話を通した、だけのようです。これに限らず梶原景時、かなり事務官僚的な印象を受けます。義経を讒言したというので嫌われ役にされがちですが、個人的には興味のある人物なので、いずれ詳細に書こうとは思っています。前にも書きましたが私は判官びいきはしませんので…
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by kyougen-kigyo | 2013-02-11 14:21 | 考察編


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