吾妻鏡、考察編~鶴岡造営と浅草の大工~

先月末で途切れていた吾妻鏡の続きです。

治承5年=養和元年(1181)前半は、西国での合戦や平清盛死去の大ニュースがあるものの、関東に関する記述は比較的穏やかです。頼朝の叔父・志田義広の反乱がこの年に出てきますが、編纂ミスで2年後だったという説が有力。また、養和元年は方丈記にも記された大飢饉があった年ですが、吾妻鏡に飢饉の記事は見当たりません。
この年、頼朝は鶴岡八幡宮寺の本格的な造営を企画します。「当宮。去年仮雖有建立之号。楚忽之間。先所被用松柱萱軒。」とあるので、先に建てたのは急造の萱葺きの建物だったようです(ちなみに、養和元年の造営でも社殿は階段の上ではなく若宮の位置)。6月27日には材木の一部が由比浦に到着。7月3日、武蔵国浅草から大工を呼び寄せ、8日に大工が到着、20日に上棟式があり、大工は頼朝から馬を賜っています。8月15日に遷宮があって造営完了。(もちろん日付は旧暦です)

注目点は〈武蔵国浅草の大工〉。現在の台東区浅草が登場です。「於鎌倉中、無可然之工匠。仍可召進武蔵国浅草大工字郷司之旨…」とあります。すなわち鎌倉にはいなかった〈然るべき工匠〉が、それも大規模な神社仏閣の造営も任せることができる宮大工の棟梁が、浅草にはいたことになります。では、鎌倉時代の浅草はどんな場所だったのでしょう。



江戸時代の浅草なら絵画や文献がいくらでも出てきますが、江戸より前となると、なかなか難しい。なにしろ「浅草」という地名の文献初出が吾妻鏡のこの記述らしいのです(他の古文書類にあるよ!という情報があったら教えてください)。浅草といえば浅草寺。浅草寺は7世紀の創建と伝える古い寺院ですし、この辺には他にも鎌倉時代以前からの由緒を持つ神社がありますから、寺社に関わる大工が近辺に集まっていたのかもしれません。浅草寺の存在や隅田川の渡船場があったことによって、鎌倉時代の浅草はそこそこ人出があったという考証もあります(『台東区史』など)。「いざ言問はん都鳥…」の名所を見たがる人もいたでしょう。もちろん江戸時代の浅草の比ではありませんが。

それから、なんとなく気になるのが大工の字(あざな。呼び名、通り名)が「郷司」であること。郷司とは一般名詞として見れば地方役人の職名です。なぜ大工のニックネームが官職名?
馬を賜った時の様子も興味深い。馬を奉納したり下賜したりする時は2人で1頭を引いて来ることがあるようです。この時、頼朝は義経に馬を引くように命じますが、義経は「下手を引く者がいない」と言い訳して渋っています。頼朝に「畠山重忠や佐貫広綱らがいるのに人がいないというのは、この役を卑しいと思っているからだろう」と叱られて慌てて1頭目を重忠に、2頭目を広綱に下手を引かせて馬を連れてきています。ここの原文、「九郎主頗恐怖。則起座引両疋」、頼朝に図星指された義経の慌てっぷりが感じられます。この後、土肥実平・工藤景光らも続き、人数から見て大工は少なくとも馬5頭程度は貰ったと思われます。同じ時期、頼朝の長女大姫の小御所と厩の工事も行われています。こちらの大工は安房国から招かれていますが、私的な工事だったためか、大工の名前も下賜品についても書かれていません。

このエピソード、大工風情に馬を引く役なんてやりたくない、という義経の階級意識の強さと、我儘な部分(甘え?)も表れているような気がします。こういう部分が後に頼朝の意に反した京での任官などの行動に繋がっていくのではないでしょうか。頼朝としては、他の御家人たちも嫌がるかもしれないから自分の弟に率先させようとしたのではないかと思うのですが、その辺の空気も読めてないような。私は判官びいきはしませんので・・・
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by kyougen-kigyo | 2013-01-20 22:30 | 考察編


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