吾妻鏡持って、鎌倉に行く。(二)~御所、竣工~

11月撮影分の続きですが・・・
治承4年11月17日に鎌倉に帰還した頼朝は、12月12日に「新造御亭」へ引越します。鶴岡八幡宮の東に建てられ、大倉御所と呼ばれるようになる所です。今でも「西御門」の地名が残っていますが、住宅地や学校の敷地なので、本格的な発掘はされていないようです。
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御所の裏手、法華堂の跡地から見下ろした所。木立に隠れて見えませんが、この辺一帯が大倉御所だったはず。

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御所の敷地にあたる小学校の脇には石碑もあります。鎌倉には大正~昭和初期に建てられたこの手の石碑が散見されますが、史実を検証せずに建てたものが多いようなので、鵜呑みにしてはいけません。大倉御所跡石碑は・・・「嘉禄元年政子薨ジ幕府ノ宇都宮辻ニ遷レルマデ此ノ地ガ幕府ノ中心タリシコト實ニ四十六年間ナリ」とありますが、承久元年(1219)に火事で焼失しているということと、幕府の移転先は「宇都宮辻」ではなく「宇都宮辻子」であるということが突っ込みどころ。辻(ツジ)と辻子(ヅシ)、似て非なるものです。しかし、この石碑自体にも歴史を感じますね。「今ヲ距タル七百三十七年ノ昔」って、治承4年は今からだと832年の昔なんですから・・・



新御所への引越しの儀は、開始は亥の刻、夜の10時前後でしょう。上総広常の家から出て新御所へ向かったとあります。明かりは屋外は松明、屋内は灯明。蝋燭は奈良時代に伝来したといわれていますが、まだ一般的ではないようで、油を入れた小皿に灯芯を差した灯明皿が多く使われています。今の感覚から見るとかなり暗い中での儀式です。ただ、日付は旧暦12日。満月ほどではないが上弦よりは大きい月が出ていたはず。吾妻鏡には「天晴風静」とありますから、月明かりで案外、明るかったかもしれません。頼朝の姿は「御水干御騎馬〈石禾栗毛〉」というもので、吾妻鏡は馬の毛色などをよく注記しているのが武家の日記らしいところ。「石禾」は甲斐の石和のことのようです。水干姿は東京大学史料編纂所の歴史絵引データベースで「水干」と検索すると図と説明が出てきます(面白いですよ、このデータベース)。
 
さて、引越しの行列には侍所別当の和田義盛を先頭に北條時政・義時、足利義兼、千葉常胤ら大勢の御家人が参列。御所の寝殿に入った後、御共の者たちは侍所に二行に対座、義盛が著到をつけたところ出仕者は311人だったと書いてあります。壮観だったでしょう。この席において、前回書いた「東国皆見其有道推而為鎌倉主」、という光景が展開されます。この時をもって鎌倉幕府が成立したとする説も有力で、私も1192年ではなく1180年説を支持しています。

20日にはこの御所で三浦義澄が椀飯(オウバン)を献じました。椀飯とは食膳のこと(古くは「土偏に完」や「土偏に宛」の字を多用していますが、文字化けしそうなので「椀」にしておきます)。「三浦介義澄献椀飯」とあれば、三浦義澄が御膳を献上した、という意味ですが、要するに三浦さんが幹事の宴会と思えばだいたい合ってるかと思います。「オオバン振る舞い」のオオバンは本来、PCの変換で出てくる「大盤」ではなく「椀飯」が本義です。
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by kyougen-kigyo | 2012-12-14 20:44 | 鎌倉歩き


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