吾妻鏡、考察編 ~関東陰陽師のこと~

治承4年に頼朝の仮御所になった中古物件(11月21日のブログ参照、正確には知家事兼道の屋敷と書いてあるがこの人物の詳細は不明)には、正暦年間(990~994年)に建立してから回禄の災い(=火事)に遭ったことがない、(安倍)晴明朝臣が鎮宅之符を押したからである、という面白い話が付随しています。

確かに正暦年間ならば安倍晴明は生きてます、推定70歳前後。しかし、もちろん鎌倉には来てませんし、京都にあった家をわざわざ鎌倉まで運んだわけでもないでしょう。では、何故そういう伝説が出てきたか。安倍晴明って鎌倉時代にも有名な人だったんだねー、という他にも背景があります。



晴明の知名度が高いおかげで陰陽道といえば平安時代、のイメージになっていますが、私は史料に出てくる陰陽道関連の儀礼の回数や陰陽師の人数からみれば、陰陽道の最盛期は鎌倉時代中期~室町時代前半だと思っています。上古には、陰陽道というのは病気や事故を避けるための技術という側面が強く、宗教色は薄かったのです。今でこそ方角だ、日の吉凶だ、というのは迷信に見えますが、当時としては暦を読み、天体を観察して先を知ろうとすることは最先端の科学技術。その証拠に、陰陽師というのは医者と同列に出てくることが多く、「医陰両道」という言い方もあります。科学と宗教が密接な関係にあるのは西洋でも同じことで、・・・その話を始めると脱線するので戻りますが、陰陽道が宗教色を強めるのが安倍晴明の時代。というか、史料を読んでいると晴明の宣伝活動がかなり効いているような印象を受けるのですがね。晴明に限らず安倍氏の方々、宣伝上手です。10~11世紀に宗教化した陰陽道は12世紀以降、拡大の一途をたどり、室町時代にピークを迎えるものの、その後は形骸化していきます(以上は〈官〉の陰陽道の流れであって、いわゆる民間陰陽道はまた別です)。

武家政権の展開にうまく乗ったわけで、鎌倉幕府においては、京都文化に憧れた3代将軍実朝の時代から陰陽道の行事が急増。摂家将軍・皇族将軍の時代になると、病気だと言っては陰陽師を呼んで祭りをし、羽蟻が集まったとかトンビが御所に飛び込んできたとか言っては陰陽師に占わせ、しまいには陰陽師のくせに太刀を帯びて武士のようなのが気に食わないと訴える武士が出てくる始末。安倍家の内部で殺人事件が起きたことまで吾妻鏡には収録されているのです(興味を持った人のために書いておくと、寛元2年正月20日に事件発生、翌年8月2日に犯人逮捕。おそらく跡目争いかと)。いわば内輪の事件が幕府の公式日記に記録されるまでに陰陽師の存在が大きくなっていたのです。

つまり、吾妻鏡が編纂される頃には鎌倉には陰陽師が大勢いて、幕府でかなり幅を利かせていたと思われます。真言宗が盛んな地域に弘法大師伝説が残り、天台宗が盛んな地域に慈覚大師の伝説が残るように、陰陽道が盛んであれば安倍晴明の伝説が残る。というわけで、鎌倉に来たこともない安倍晴明が、鎌倉のとある屋敷に護符を貼ったことになったのでしょう。鎌倉に限らず関東一円には晴明伝説が意外と多いのです。
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by kyougen-kigyo | 2012-11-29 20:52 | 考察編


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